Ⅳ(7)

 ゆらり。


 反射的に、喉から息が絞り出された。そのまま全身が硬直する。


 @が、手を下ろした。何事もなかったかのように元に戻り、そして、段々と大きく揺らめきだした。


 そして、あいつ等が、一歩、こちらへと踏み出す。


 恐怖が稲妻のように走り抜けた。


 掲示板に貼り出された中傷。


 拡散する事実無根のメール。


 遠巻きにされている自分。


 机の中に詰められたゴミ。


 捨てられている上履き。


 イスに塗られた接着剤。


 汚された制服の臭い。


 私の生を否定する声。


 独りの世界。


 私を虐めて、見捨てて、見物する世界。


 死ぬまで。


 記憶の底の隙間から煩雑なイメージが吹き出し、頭の中を無秩序に乱れ飛んで、意識は混沌の渦に翻弄され、制御できない混乱の中で振り回される。


 明らかなのは、圧倒的な恐怖。


 何かを考えるよりも早く体が動いた。

 さっきまで震えるだけだった足が力の限りに踏み切って、全身が前方へと跳ね飛ぶ。そのまま精一杯手を伸ばして、飛び込みながら、私は、地面で赤黒く輝く、Cを――


 ――手に取った。


 視界が一気に切り替わった。


 いや、それは正しい表現ではない。見える景色は変わらないのだが、受ける印象が一変した。

 先ほどまで異様で異質で不気味で恐ろしかったものが、全く普通に感じる。

 そして、これで虐められない、もう独りではないという安心感が私を包んだ。


 その一方で、何か大切なものを裏切って捨てたような後ろめたさが背中に貼り付いていた。

 それでも、恐怖から解放されてこみ上げる嬉しさの方が大きかった。

 悪夢が終わった、と感じたのだ。


 終わっていなかった。


 体が思うように動かない。


 自分の意図に反して、何かに引っ張られるように、添うように、手足が動いていく。

 力ずくで無理矢理にではなく、手足に力が入らなくて、まるで操り人形になったみたいだ。

 そのまま、私の体は導かれるように、ゆっくりと立ち上がった。


 暗闇となって。


 そう、私の体は、さっきまで私を取り囲んでいた暗闇たちと同じになっていた。原始的で生々しく、緩慢に脈動する、嫌悪と恐怖を感じた暗闇に。

 それなのに、あれだけ恐れた暗闇だというのに、今は特段何も感じない。


 全く、何も。


 意識は、私のままだというのに。


 そのまま、私の体は暗闇たちの作る輪の中に加わった。そして、周りと合わせて一斉に揺らめき始める。


 輪の中心にいるのは、もはや人形のみ。


 戦慄した。


 手に、足に、自分の体に力の限り命令を下して抵抗しようとする。

 次にとるはずの行動を止めるために、避けるために、とにかく逆へ逆へと向かおうと足掻いた。


 今更だった。


 次の瞬間、私を含めた暗闇たちは、一斉に人形へと殺到した。

 そのまま先を競うように、しかしながら秩序を守って順番に、淡々と人形へと手を伸ばしていく。

 その手は人形へとめり込んでは引き抜かれ、そしてその度に人形は打ち震えて、血の気が引いていった。

 そのうちに、すぐに私の順番となって、私にえぐられた人形はさらに一層青白くなった。


 そう、えぐっているのだ。それなのに、何故私の手は何も感じないんだろう? どうして平気なの? こんなに血まみれなのに。


 血? 人形に血? 違う、これは人形じゃない。


 記憶の底が、割れた。

 全力でふたをして封じた、彼方へと追いやった記憶が、事実が、目の前へと突きつけられる。


 窓の外には下弦の月。


 その光を背負う希美。


 後ろの窓は開いていて、


 彼女の体は宙に浮いて、


 向こうの夜空へ吸い込まれた。


 悲しげな顔。


 地面へと叩きつけられた希美の体から、血がじわりとにじみ出てくる。


 赤い、赤い――


「いやああああああ!」




 もう、あの小さい声がまた聞こえても、私は耳を貸さない。

 ……。

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