Ⅳ(6)

 全身に電気が走り、肺が硬直する。


 暗闇たちが一斉に揺らめいたのだ。

 今まで、気がついたときには存在し近づいていたから、それらの動作を見るのは初めてだった。


 来る。


 直感した。

 何がどうというわけではない。明確な理由があり説明が出来るわけではない。そもそも、動作らしい動作を見るのは初めてなのだ。はっきりとしたことなど、何もあるはずもない。

 しかし、私には確信があった。


 間違いなく、あいつ等は向かって来る。


 そして、どうなる?


 足が震える。

 そして、逃げ先を求めて小さくうごめき、行き場を見つけられずに戻った。


 そう、囲まれているのだ。


 逃げ道など、ない。


 激しい恐怖が、私を襲った。


 しかし、張り付けられていた私の意識は、それ故に変化を拾い続けて、小さな違和感に気づいた。


 遅――い?


 変化がない。先ほど直感したとき、来ると思ったときは、次の瞬間には一気に踏み込んでこられるイメージだった。

 それなのに、暗闇たちは未だに小さく揺らめき続けるだけで、それ以上変化の兆しが見られない。

 かといって、残念ながら、さっきの確信が間違いだとも思えない。


 そのとき、あいつ等が私だけを見ているのではないことに気づいた。

 顔の向きが、時折、私からわずかに逸れていることに気づいたのだ。

 暗闇たちの視線は、私と、私の右隣辺りを漂っている。


 振り返ったところにあったのは、人形だった。


 右のすぐ後ろ辺りの、私の側に、少し古びた人形が置いてある。

 見覚えがあるような、ないような、でも小さい頃によく遊んで、ずっと大切にしてきたはずの人形。足を前に投げ出す形で座っている。無防備に。


 いけない。


 暗闇たちの意図が直感的に理解できて、私は人形を後ろに隠すように、右手へ少しにじり寄った。


 迷っている。あいつ等は、私か、この人形か、どちらを標的にするかを迷っているのだ。


 あいつ等にとっては、どちらが標的でも構わない。


 そして、標的は一つで十分。


 あ。


 そこで、ふと、あることに気づいた。

 気づいてしまった。

 それは、気がついても何ら不思議ではないことであり、すがりつける蜘蛛の糸に見えて、でもひどく後ろめたく嫌悪すること。


 そう、一つで十分なのだから、それはのだ。


 この人形が身代わりになってくれれば、あいつ等がこの人形を標的にしてくれれば、私はこの絶望から解放される。


 あいつ等が、この子を選んでくれ た   ら 。


 全身を悪寒が走り抜けた。

 皮膚が粟立ち、息が浅くなって、顎が、手足が、体が小さく震える。


 生ぬるい汗が一滴、頬を伝う。


 頭の中がごちゃごちゃになる。

 それが、あいつ等への恐れのせいか、自分への嫌悪のせいか、もう分からなかった。


 ちらりと、背後の人形へと目を移す。

 人形は何も変わらず、ただ座っているだけだった。

 何の変化もない。


 そして、恐る恐る正面の暗闇へと向いて、私は、目を見開いた。


 暗闇が足下を指さしていた。


 足下の、Cを。


 前の暗闇の足下に、赤黒く輝くアルファベットのCが落ちていた。さっきまでは、間違いなくそんなものはなかったのに。私が目を離している間に、唐突にCが出現していた。

 そして、正面の@が、それを指さしながらたたずんでいる。


 いや、唐突に現れたのではない。

 出したのだ。

 @が、私が考えたことを察して、誘いの手を伸ばしてきたのだ。


 私が、この子を差し出せば、と考えたことを察して。


 そんなことは。


 わずかにたじろぎつつ、私は顔を左右に振った。

 恐怖と嫌悪が混ぜこぜになって私の中を渦巻き、どうすればいいのか分からなかった。


 ただ、とても大切なものを捨てかけている、そんな危機感が、私の中の何かに訴えかけている、そんな気がした。

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