Ⅳ(2)

 もちろん、この状況、陰鬱なのに圧迫感のある風景で、冷たい雨にさらされて、周囲からひそひそと微かな声が聞こえてくるのだから、気持ちのいいはずはない。その影響もあることは、自覚している。

 しかし、この不快感はそれだけが理由ではない。


 何を言っているのかが分からないのだ。


 それは、声が小さいからではない。

 言葉が分からない、意味が理解できない。


 使われている言語が日本語なのは分かるのに、言葉の意味が分からない。標準語に慣れ親しんだ者が特色の強い方言に戸惑う感じを、極端にしたようなものだろうか。

 一文字一文字はちゃんと聞き取れるのだが、語句、いや単語の段階から意味が分からない。何を言われているのか分からないというのは、やはり不安を呼んでしまう。


 加えて、もう一つ。


 あざ笑っている。


 嘲笑されているのだ。

 言葉が分からないからといって、それだけではここまで不愉快になったりはしない。

 森の中を小さくうごめき回っている声には、時折、言葉の端々に私のことをあざ笑っているのが感じられた。


 言葉が分からないのだから、そんなことは分からないだろうと言われそうだが、それだけは間違いなく感じられた。

 間違いなく、私は嘲笑されている。


 それに、声はただ漂うだけで、大きくもならなければ小さくもならない。

 木の陰にいる何者か達は、ずっと同じ調子で言葉を交わしている。姿を現すわけでもなく、立ち去るわけでもなく。


 ということは。


 観察、されている。


 十二分に不愉快な話だ。

 いや、それだけじゃない。正直に言えば気味が悪く、ひどく不安だった。

 敵意というか、少なくとも拒絶が感じられる中に一人きりというのは、やっぱり心細い。


 私を光の球から誘い出した声とはまるで違って、嘲りを含んで遠巻きに交わされる、意味の分からない言葉。

 さっきの声は、一体何処に行ってしまったのだろうか。


 ? ちょっと待って。


 さっきの声とはまるで違う? 何故違うと言える?

 さっきだって、あまりにも微かな、細く、薄い、小さな声で、ほとんど認識できていなかったのに? 何故、私は違うと思ったのだろう?


 それは、そう、さっきはあざ笑われているとは感じなかったから。


 それは断言できる。

 先ほどの声は、どちらかと言えば訴えかけてくるような、切なくなるような、悲しげな感じだった。

 それに、今みたいな、まるで意味不明の言葉じゃなかったから、得体の知れない恐怖は感じなかったのだ。


 


 微かにそんな気がした、極々小さな音としか認識できなかったはずだ。

 それなのに、さっきの声は意味不明の言葉じゃなかったと、どうして分かるのだろう?


 何と言っていたのか、分かっていたのか、私は?


 いけない。相当に混乱している。


 考えるそばから疑問がわき出てきて、収拾がつかなくなっている自分に気づいた。考えれば考えるほど深みにはまるようだ。

 加えて、記憶に、どうにも判然としない、漠然としたところがあるみたいで、重要なピースが無いままパズルを組み立てているような感じになっている。


 それは、つまり、私が何かから目を背けているということか。


 あ。


 まとまりのない思考に振り回されていたが、その隙間に、私の肌が異変に気づいて知らせてきた。


 雨が、止んでいた。


 私が頭の中で堂々巡りを続けている間に、いつの間にか雨が止んでいたらしい。

 細く薄く、寒々と、ひたすらに降り続けていた、心の軸の部分まで侵すようなあの雨が。それだけでも、ほんの少し、一息つけるような気がした。


 しかし、そう都合の良い話ではないらしい。


 声が聞こえない。


 先ほどまで、見えないものの隙間に潜み、捕らえられないものの合間を縫うように交わされていた声が、ぴたりと止んでいた。

 雨が止み、声も止み、辺りは静寂に包まれていた。


 嫌な静けさ、だった。

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