Ⅲ(1)
「リストカットでⅢ―300だと?」
「は、はいっ」
手術室に着くなり飛んだ進藤の鋭い声に、小暮が慌て気味に応える。その声に如実に含まれた動揺から、彼の手に余る事態になっていることが容易に察せられた。
リストカット。呼ばれる際に聞いたときは、やはり記憶のふたが緩んで一瞬友紀子の姿が浮かびあがったが、例のごとく即座に意識をコントロールして、今の進藤に意識の空白はなかった。
ただ、いつもよりも、少しだけ長かった――かもしれなかった。
意識レベルⅢ―300は、痛みで刺激しても意識が覚醒しない状態だ。それ以前に、刺激に対して反応さえしない、平たく言えば意識不明である。出血多量が想定され、緊急の対応が必要なのは言うまでもない。
だが、進藤の語気が厳しいのは、それだけが理由ではなかった。時刻は深夜1時前後、先ほど全身多発骨折及び肝損傷の女子学生を手術したばかりで、当直の小暮を押し退けて仮眠用のベッドを占拠していたところを叩き起こされた、ということも若干響いてはいるが、そんな些細なことはもちろん理由ではない。
どんな創傷なんだ?
進藤が険しくなっている理由は、その疑問だった。
いくら小暮が新人とはいえ、傷の深くない単純な切り口なら助けを求めるはずはない。自分が呼ばれるということは、その切り傷が相当な惨状になっていることを告げているのだ。
「進藤先生、頼むよ」
中川が短く告げる。冷たくはないが、平坦な声。
うなずき返して、取り急ぎ手術部位を見るため、小暮の向かい側へと早足で回り込む。
そして、問題の創傷がはっきりと目に飛び込んできたところで、進藤の口があっけにとられて軽く開いた。
「おいおい……」
それから言葉が続かなくて、絶句した。
手首が千切れかかってるじゃないか。
患者は若い女性、多分まだ高校生ぐらいだろう、綺麗な顔立ちで、どこかで見たような、と思った先から思い出した。
先ほど執刀した女子学生と似ているのだ。
ただし、こちらは髪を伸ばしていて、先ほどの子よりも静かな印象を演出している。
まあ、何にしても、傷の有様と不釣り合いなことこの上なかった。
創傷は大体左手首。
正確には、左手首から始まって肘に向かって10センチメートル程までの範囲に広がっている。
いや、広がっているのではない。広く分布しているのだ。切り口が一つ肘に向かって延びているのではなく、切り口が乱雑に、デタラメに、幾重にも重なっている。
しかも、深い。どの傷も表皮をなでる程度のものではない。一見しただけでも深くえぐられていることははっきりしており、その多くは腕を貫通していた。
切り口が粗いので、使用した刃物はあまり鋭利なものではなかったはずだが、それでこれならば、刃物を当てて引いたのではなく、力を込めて突き刺したのだろう。振りかぶるぐらいの勢いで、だ。
そんな創傷がいくつも腕に対して斜め、又は垂直に入ったため、該当部位はボロボロの惨状、つながっているのが疑わしい有様だったのである。“手首を切った”ことには変わらないのだが、ここまでくれば、一般的に広まっているであろう“リストカット”のイメージとはもう別物と言えそうだ。
左腕半断裂、といったところか。
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