Ⅰ(2)
着替えて手術室に入って間もなく、検査結果とともに患者が運び込まれ、看護師が準備をするところに、今度は麻酔科の中川医師が到着した。
「やっほ~、進藤先生お疲れさま~」
「お疲れさまです、中川先生」
気の抜けた挨拶に、進藤が淡々と応える。
「小暮ちゃんもお疲れ~。いやぁ、もうちょっとで病院から出るってところで捕まっちゃったよ。残念残念」
「ついてなかったっすねぇ」
小暮にも声をかけるついでに、救急にかり出されたことも中川は愚痴った。その至極軽い調子に、小暮もつられてのんきな応えになっている。
「ご愁傷様です。小暮、挿管」
場の空気が緩み過ぎないように少し鋭く言い放つ。進藤のその声に、小暮は「はいっ」とだけ応えて慌てて動き出した。しかし、中川は軽い調子のままで、「進藤先生、厳しいねぇ」と肩をすくめるジェスチャーで応えて、レントゲンとCTのフィルムへと目を移した。
中川の軽い口調が、余計な緊張を取り除くためのものだということは承知していたが、小暮は緊張しているぐらいが丁度良いと進藤は思っていた。まだまだ頼りないのだ。
「うーん。進藤先生、これはちょっと」
検査結果を前にした中川が、それから目を離さずに進藤へと声をかける。気持ち、眉間にしわが寄っていた。中川と並んで同様に凝視しながら、進藤は「ええ」とだけ応える。そこへ、「終わりました」と小暮も加わった。
「どうだ?」
進藤に尋ねられ、小暮はフィルムをにらみ始めた。
「頭蓋は結構大丈夫っぽいかな? 意外ですね。でも、右肩甲骨骨折、右肋骨の7から12も骨折、いや、下の方は砕けてますね。右大腿骨も完全にイってます。脊椎にも亀裂入ってますし、ヤバいっすね。腰椎も……っていうか、進藤先生」
そこで一度言葉を切ってから、小暮はCTのフィルムを指さした。
「これ、血腫ですよね? やっぱり。何か、デカいっすけど……」
無言で中川へと目を向ける進藤。その視線を受けて、中川も「だよねぇ」と応える。
その通りだった。CTの結果では腹部、腹腔内にかなりの大きさの血腫が見て取れる。腹の中に相当量の血溜まりが出来ているわけだ。位置からすれば、一番疑われるのは。
「肝臓の損傷、又は破裂か」
進藤が抑揚の欠けた声で診断を下した。中川も「だね」と短く同意し、小暮から緊張が伝わる。
肝臓のような臓器が損傷すると、大きな動脈が切れたのと同様に多量の出血が起きる。もちろん自然に止まってくれることはないから、このままでは出血多量によるショックで、いわゆる失血死となる。
それも、そう先の話でもなさそうだ。
「これより緊急手術を行います」
進藤の宣告で、改めて手術室内に緊張が走る。
「患者は右肩甲骨、右肋骨、右大腿骨、脊椎及び腰椎他の各所に見られる多発骨折、それと肝損傷が疑われます。他にも、各所で筋肉、腱、神経の損傷、特に脊椎と腰椎の損傷が危惧されますが、肝損傷による出血が著しいと思われますので、まずはその処置を優先します」
進藤の説明に全員がうなずく。
「中川先生よろしくお願いします」
「あいよ」
進藤の声に中川が応える。その調子は軽いままだが、進藤には不安はなかった。中川は、口調とは反して仕事ぶりの堅実さには際だったものがある男で、進藤が今まで仕事をした中でも、一、二を争う腕を持つ麻酔科医なのである。
続いて看護師へと顔を向けて、
「開腹時に多量の血液があふれ、さらに失血すると思われます。イノバン100mgを生理食塩水で40mlに希釈、3ml/hで始めて8ml/hまで上昇、輸血ポンピングでお願いします」
と指示を出して、看護師が「はい」と歯切れよく応える。
取り急ぎ、血圧を上げる昇圧剤が8ml/hと、血を押し込み気味にするポンピングで、進藤は血圧の維持を期待することにした。
「小暮、助手を頼む」
「ういっす」
最後に声をかけた小暮からは、相変わらずの威勢の良い応えが返ってきた。が、先ほどまでよりも、心なしか凛々しい声になっている。
小暮に向かってうなずいて見せてから、一息、進藤は深く息を吸い込んだ。
「それでは、始めます」
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