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病院から自宅に帰り、裕次郎は今日が出勤日でなくて良かったと思った。カシャカシャという音は微かに聞こえるが、サイコロ切りを覚えたおかげで音は格段に小さくなっている。それに、病院が主催しているサイコロ切りの講習には老若男女問わず結構な人が参加していた。聞けばそこにいる人は皆カシャカシャ病だという。
「おや、新顔ですな」と五十代くらいの頭の禿げた男性が講習会場に入るなり裕次郎に声をかけた。男性は赤いギンガムチェックのエプロンをつけていた。
「私は4なんですよ。あなたは?」
「俺、いやあの、僕は2、です」
「2ですか! それはそれは、これからまだまだ伸びますな」
伸びますな、の意味がちょっとよく分からない裕次郎は「はあ」と曖昧な声を漏らした。伸びますな、というのはこれから数字がどんどん増えていくということなのだろうか。
「あそこの人は」と男性が顎で隣のテーブルを指す。そこには三十代くらいのすらっとした美人が立っていた。どことなく陰りのある顔。長い髪を後ろでひとつに束ねたうなじが白く、妙に色っぽい。
男性が小声になり裕次郎の耳元でささやく。
「彼女は6では足りなくて、最近じゃあ多面体のサイコロを振ってるって噂です」
「へぇ」
裕次郎の視線に気づいたのか、女性は裕次郎の方を向き、小さくお辞儀をした。その顔を見て、裕次郎の心は昂った。
——美しい……。
それはここ数年感じたことのないような心の衝動だった。別にもてないわけじゃない。ただ、人と付き合ったり抱き合ったり別れたりがめんどくさいだけ。そう思い始めてから何年も経っているというのに。
ドキドキする気持ちを抑えながらサイコロ切りの講習を受けた裕次郎は、浮き足だった気持ちで自宅に戻ってきたのであった。
「次の講習は来週の月曜日か——」
裕次郎は今日講習であった女性——花村瑠璃子さん——のことを思い出していた。花村瑠璃子、なんて素敵な名前。それに負けないくらい本人も素敵な……。裕次郎の体の奥底で熱い何かがむくりと顔をもたげた気がした。
それからというもの裕次郎は、毎週月曜日の昼下がりに耳鼻科主催のサイコロ切りの講習に出かけた。初日こそうまく切れなかったサイコロ切りは今では五ミリ角に切れるようになっている。にんじん、大根、ゴボウにじゃがいも。小さくコロコロサイコロ状になった野菜を自宅に持ち帰り、それを鍋で煮る。味付けは顆粒だしだったりコンソメだったりカレー粉だったりその都度変えて食べている。鶏肉や豚肉、豆腐に卵。その他の材料を少し追加するだけで野菜のサイコロ切りは色々な料理へと進化を遂げる。
心なしか、体の体調も以前よりずっと良くなった気がしているのは、きっと食べているものがコンビニ食から野菜中心の自炊に変わったせいもあるだろう。それと——。
裕次郎は隣で眠っている美しい瑠璃子の顔を眺める。白い頬、美しい唇。どことなく陰りがある表情は眠っている時は見られない。起こしてしまおうか。いますぐに。そうすればまた彼女のあのどことなく寂しげな顔を見ることができる。
——ダメだろ、寝かせてやらなきゃ。
瑠璃子の持っている十二面体サイコロ。瑠璃子がサイコロを振るといつでもゾロ目の『11』が出ていた。だがしかし、裕次郎と付き合い始めてからは『1』が出ている。いい傾向だと瑠璃子も裕次郎も思っている。
思っているのだけれど——。
裕次郎は瑠璃子を起こさないようにそっと布団から抜け出すと、机の上に置いてある瑠璃子の十二面体サイコロを振った。カラカラとボールが転がるように小さなサイコロは机の上を滑って止まる。
『12』のゾロ目。まただ。最近はいつもこうだ。『2』のゾロ目だった裕次郎はここ最近毎回『12』のゾロ目が出てしまう。裕次郎は考える。瑠璃子は『11』から『1』になった。その反対に自分は『2』から『12』になってしまった。
カシャカシャ、カシャカシャ、あの音が不意に裕次郎を襲う。やめろ、なりやめ。
カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ
なんでこんなことになったんだ、と裕次郎は考える。でも行き着く答えはいつもひとつしかない。瑠璃子のゾロ目の数が自分に移動した。それしか考えられない。
カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ
カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ、カシャカシャ
「鳴り止めって、あああああ」
耳の穴に指を突っ込んで掻きむしる。でも、鼓膜までは届かない。痒い。ムズムズする。もう限界だ。ガシガシと頭の毛を掻きむしると、毛髪が何本か目の前を落ちていった。裕次郎の頭には大きな十円禿げができ始めている。ストレスが原因の病気、カシャカシャ病は治る見込みがない。対処法があるだけだ。
裕次郎はふらりと立ち上がり台所へ向かう。冷蔵庫から人参を取り出し、まな板の上に置くと裕次郎はサイコロ切りを始めた。小さく、小さく、できるだけ小さく。皮を剥き、三等分にするとそれを五ミリ幅に切っていく。それを横に並べ、また五ミリ幅でマッチ棒のように切る。さらにそれを五ミリ角のサイコロになるように切り分けていく。オレンジ色の小さなサイコロがいくつもいくつも白々しい蛍光灯の下で切り口が瑞々しく輝く。
「ああ、音が鳴り止んだ」
裕次郎は息を吐くと、包丁に写った自分の顔を見た。酷い顔をしている。恋人もできて幸せなはずなのに——。
「どうして、こんなことになったんだ?」と、裕次郎はまたそう口に出していた。
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