午後一時。ようやく裕次郎は「石川さん」と看護婦に名前を呼ばれ、診察室の中に入った。近所の耳鼻科は裕次郎が思ってる以上に混んでいた。そういえば朝から何も食べてないような気がする。裕次郎の腹の虫がぐうっと鳴るのと恰幅のいい男性医師が「今日はどうしましたか?」と聞くのが同時だった。


「幻聴が聞こえてくるんです」と裕次郎は医師に告げる。医師は「それはどんな?」と聞き返す。


「カシャカシャと、レジ袋を擦り合わせるような音が耳の中で聞こえてくるんですよ」

「カシャカシャと、ですか?」

「はい、カシャカシャと」

「ふんふん、なるほど。それは今も聞こえますか?」


 裕次郎は耳を澄ました。カシャ、くらいは聞こえる気もするが、家にいた時ほどではない。


「いいえ、今はそんなにも」

「そうですか。なるほど——」


 恰幅のいい男性医師は「どれどれ」と耳の中に銀色の耳鏡を突っ込むと裕次郎の耳の中を観察した。「ふんふん」と医師の頷くような声が裕次郎の耳朶に流れこむ。その後で裕次郎に向き直ると、「これはカシャカシャ病ですね」と病名を告げた。


「か、カシャ、え? 今なんて?」

「カシャカシャ病。別名サイコロゾロ目病とも呼ばれています」

「さ、さいこ……、すいません、それってどういう病気なのですか?」


 医師は机の上から耳の断面図が書いてあるシートを取り上げると、裕次郎に見せながら話を続ける。


「ここの部分、鼓膜。わかりますよね? この膜のところにサイコロみたいな四角いあざのようなものが浮かぶんですよ。それもあってサイコロゾロ目病。ここ最近多いんですよね。まあ、一種のストレス病みたいなもんです。よくある症状はカシャカシャとレジ袋が擦れるような音が聞こえ始め、だんだん大きく、また頻繁に聞こえるようになる病気ですが、不思議なことにこの病気にかかる人はサイコロを振ると必ずゾロ目になるんですよ」

「サイコロが、ゾロ目に?」

「ええ。サイコロがゾロ目に」


「試しにふってみてください」と医師は小さなサイコロを二つ裕次郎に手渡した。


 ——サイコロがゾロ目に……。馬鹿な、そんな病気聞いたことないぞ。


 裕次郎は訝しげに眉根を寄せると、サイコロを机の上に転がした。カラカラとサイコロが医師の机の上を転がる。そして止まった。


「あっ!」思わず裕次郎は声を漏らす。


「ほらね?」

「たまたまじゃないんですか?」

「じゃあ、もう一度転がしてみてください」


 裕次郎はもう一度サイコロを転がす。出た目は先程と同じ、『2』のゾロ目だった。もう一度、転がす。また『2』のゾロ目。嘘だろ? こんなことってあるはずないぞと、何度も転がしてみるけれど、何度転がしてみても、サイコロはゾロ目の『2』だった。


「なんで、こんな——」

「診断名はカシャカシャ病っと。それも、今は『2』ですか」

「え? 今は、って、それってどういう?」

「ストレス度合いによってゾロ目になる数字が違うんですよ」

「というと?」

「1がストレス度合いが低く、6が高い。もっと大きな数字が出るサイコロを必要とする人もいます。まあ、そうなるともう手術で鼓膜を切り取るしか手立てはないのですが、あなたの場合はまだ2ですから」


 裕次郎は真面目な顔でおかしなことを言う医師を茫然と見つめた。そして尋ねる。


「治るやまいなんでしょうか?」

「治る病ではないですね」

「それじゃあ、俺はずっとカシャカシャという音が聞こえ続けるってことですか?」

「対処方法はあります」

「対処方法?」

「石川さんはお料理はされますか?」


「いいえ」と裕次郎は首を横に振る。三十五歳、独身の裕次郎の家には台所はあるが一度も調理をしたことがない。


「でしょうね。このカシャカシャ病にかかる方は大抵の場合料理をしません。これはここ数年の研究結果に基づいた対処法なのですが、野菜をね」

「野菜を?」

「野菜をサイコロ切りにすると耳障りな音がだんだん小さくなっていくのです」

「は?」

「ですから、野菜をサイコロ切り、ああ、サイコロ切りの意味がわかりませんよね」


「ちょっと」と医師は年配の看護婦さんに声をかける。


「サイコロ切りの講習ってあったかな?」

「はい。確か今日の午後三時からだったと思いますけど」



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