第7話
その週の土曜日のことである。食料の買い出しに行こうと玄関ドアを開けて鍵をかけようとしたときに、鞄に入れていたスマホの着信が入った。
『二葉、元気にしてる?』
「してるしてる。大丈夫」
電話の主は鳩美である。スマホを片手にしてちょっと首を傾げて、反対の手ではかちゃりと鍵をかけた。ちょっとタイミングが悪かったかなと思いつつ、いつもの近況報告だ。
『もしかして今、あんまりよくない?』
「買い物に出かけようとしてただけ。大丈夫」
『あっ、もしかして彼氏くんとか。そりゃ悪かった』
鳩美にはまだ別れたことを告げていないので、これには黙るしかなかった。電話をしながら歩くのも気が引けて、通路の柵に手をかけつつぼんやりと外を見つめる。風がちょっと冷たいけど、いい天気だ。
『別に、何かあるわけじゃないのよ。欲しいものとかあったら送るわよーって言いたかっただけで。こっちの方が野菜も安いし。またかけるわね』
「ありがとう。でも送料もかかるから」
二葉が一人暮らしを始めてからというもの鳩美は何かと連絡をくれるが、二葉にとっては知らぬ土地というわけでもない。しかし大丈夫、と告げても心配する気持ちはわかるし、こうして電話をくれることはありがたいことだとも思っている。
「あ、そうだ。送ってくれるなら……」と、まで言いかけたとき、外の下で見覚えのある姿を見た。
「え……?」
『なになに? 何かある?』
「ううん、なんでもない。今度はこっちからかけるね、またね!」
慌てて電話を切って、スマホの黒い画面をじっと見つめ、いや違う、ともう一度外の景色を見下ろす。
あのもこもこの後ろ姿はやっぱり見間違いじゃない。
「ユウさんと、お隣の女子大生さん……?」
相変わらず寒いのか、肩をすくめるユウの頭に、女子大生の手のひらがぽこんと飛ぶ。
わあ、と二葉は思わず小さくなって隠れた。
そのとき二葉は思い出した。
『来てくれるの水城さんだったんだ』
『でもあの人、彼女持ちでしょ』
ユウが二葉の階に引っ越してきたときに同僚たちがしていたひそひそ話だ。
(そうだった。すっかり忘れてた!)
隣に住む女子大生と、ユウ。二人並んだ姿を見て、思わず頭を抱えてしまった。二人が付き合っているというのなら、と二葉は自分の行動を思い返す。
(二人っきりでお弁当を食べたり、一緒に帰ったりとか……)
思い返して――やってくるのはちょっとした自己嫌悪だ。
「……お付き合いしている人がいるというのなら、それ以外の異性には節度ある距離感が必要だと思うんですよ」
しょんぼり眉、なんていわれることも多々ある二葉の顔だが、本日は無表情のまま淡々と作業を続けていた。いつもならばユウの隣で、入り口から一番近い席が固定位置だが、本日は逆の位置でアッキー側だ。ユウは入ってくるなり、先に席を陣取っていた二葉を見て不思議そうな顔をしていたが、別になんの約束をしているわけじゃない。
「どうしたの? 彼氏に浮気でもされた?」
「今はお付き合いしている男性はいません」
「やっだ奇遇! あたしもいないの! 佳苗ちゃん、あたしたち付き合っちゃう!?」
「ありがとうございます、でもお気持ちだけいただきますね」
「ああん。お気持ちだけもらわれちゃったわ~!」
冗談とわかりつつもこうしてはっきりと断るのは、二葉にしては珍しいが、よく考えもせずに受け入れて痛い目を見たのはつい最近のことだ。
だからユウに対して、もやもやした気持ちになっているのは、彼女がいるというのなら相手を傷つけるような行動をしないでほしかった。好き同士なら、彼氏が自分以外の女性と二人きりでいることをよく思わない人は多いんじゃないだろうか……と、思うのは二葉の勝手な想像で、そうじゃない人ももちろんいるだろう。
互いにそこら辺は気にしないとしているカップルもいるだろうし、そもそも二葉が口出しすべきことではない。
(でも、やっぱり嫌な人は嫌だろうし……うん。私が気になるんだもの。ユウさんの親切に甘んじていた私が悪い。一緒に帰るのは今後はなし、必要以上に関わるのもなし。そもそも、会社の同僚なんだから)
よし、と二葉は気合を入れた。
こういう融通がきかないところが大勢の中で馴染めない原因で、かつ短期間で元彼と別れてしまった理由なのだが、二葉は自分では気づいていない。
「そうだ。アッキーさん、品評会のテーマですが……って、それ、かぎ針ですか?」
「いいえ! レース針よ!」
じゃじゃん、とアッキーが見せたのは、二葉が持っているレース針よりも少しかぎの形が。
「えっ、アッキーさんも編み物をされるんですか……!?」
なんだか嬉しくて、少し大きな声を出してしまった。考えてみればアッキーが作っているものは細々としているものばかりで、いつも彼の手元に隠れているから何をしているのかよくわからなかった。
それに二葉よりもかぎ針のことをわかっている様子だったので、この疑問は愚行だったが、アッキーは気にしていない様子だ。
「ううん。佳苗ちゃんが持っているのを見て、あたしも懐かしくって引っ張り出してきちゃった。でもね、あたしはユウくんみたいに編み物専門じゃなくってよ。あたしは……アクセサリー大好きっ子だ!」
ざっぱーん、と背後に波が見えるような姿と、いつもは軽やかに話すアッキーの声が唐突に最後、野太くなったことに驚きつつ、二葉はぱちぱちと瞬きで返事をした。
「アクセサリー大好きっ子ですか……?」
「そうっ! ユウくんが編み物と名前がつくものならなんでも手を伸ばしちゃうのと同じく、あたしは指輪でも、ネックレスでもはたまた髪留めでも、素敵な装飾品だと感じちゃったらなーんでも作りたくなっちゃうのよ!」
そう話すアッキーのおでこにはきらきら輝くピンがペケの形でつけられている。
「もしかして、今までつけていらっしゃったものは、全部アッキーさんの手作りなんですか?」
「そうよ。びっくりさせちゃったかしら?」
「いいえ。とっても素敵だと思います」
「あらまっ」
アッキーはぱちりと瞬いた後に、「ありがとう」とにこりと微笑んだ。好きなものがある人は、みんな素敵だし、それくらい好きなものがあるということが、すごく羨ましい。
「うふふ。じゃあせっかくだし、今日はあたしが説明係になろうかしら。レース編みは久しぶりだから、リハビリしつつでごめんなさいね。さっきまで作っていたのは、これよ」
と、アッキーが見せてくれたのは親指くらいの小さな花だ。鮮やかな赤色で、五枚の花びらがあるように見える。
「すごい。小さい……」
「レース編みは、かぎ針と編み方は同じで、違いはただ糸が細くなるだけだけれど、その分とっても繊細なものを作ることができるのよ」
「これ、一本の糸でできているんですよね? 最初に輪っかを作って、そこから丸く編んでいくんですね……」
あみぐるみの作り方と最初は同じだから、見たらなんとなく想像できる。
うんうん、とアッキーは嬉しそうに頷いた。しかしこれは二葉も初めて見たのだが、花弁の真ん中の場所にビーズがつけられていた。黒くて、小さい。けれど、あるとないとでは雰囲気が格段に違う。赤色の中に、黒が一点あるだけでぐっと引き締まって、かっこよくなる。
「ビーズって、編み物につけてもいいですね……!」
懐かしく思うのは子供の頃にビーズのアクセサリーがクラスで流行ったことがあるからだ。その頃にはすでに手芸を避けていたから二葉は持ってはいなかったが、学校に持ってきている子もいた。小さな瓶の中にぎゅっと入った色とりどりのビーズは、子供心に海辺の砂浜で輝いている宝箱のようにも思えた。
「かぎ針編みとビーズ抜群の相性なんや……アクセサリーにももちろん、ポーチとか、がま口とかできるしな。他にもイチゴの形をつくって、つぶつぶのとこを白いビーズにするなんて想像してみ。めっちゃ可愛いで。ビーズの組み合わせの可能性は無限大なんやで……」
「そこ、説明したがりの関西弁くん。ぽそぽそ遠くで喋るのはおやめなさい」
アッキーに指摘されて、ユウはしゅんと肩を小さくした。どこまでも編み物好きな青年だった。
「まあユウくんはさておき。この、花びら。実はさらに別の形を三枚作っております。あ、真ん中にビーズをつけてるのは一枚だけね」
しぴっと三枚の赤い花を見せてくれたが、それぞれ若干大きさが違った。具体的にいうと、小の花にはビーズがつけられていて、中、大、と大きくなるにつれて花弁のひだも合わせて大きくなる。その三枚を、ビーズの花が一番上になるようにアッキーは重ねて、ついついっと花の後側を糸と針を使ってまとめる。
「わあ!」と、声を出して、二葉は両手で拍手をしてしまった。三枚が一緒になることで、より立体的になり、美しい花の姿になる。
「これを、ピンに通しても、髪ゴムにつけても、大人可愛いくて素敵でしょ。もちろん私が使うものじゃないけどね」
「え? アッキーさんが使わないんですか……?」
「これはお店で売る予定。あたし、ハンドメイドのアクセサリー屋さんをしているの。お店を持ってるわけじゃなくて、ネットとか、他の人の店先に置いてもらってるだけだけど」
「へぇっ!」
色んなお仕事があるものだ、と驚くと同時に、いつもおしゃれに着飾っているので、逆に納得してしまう。
「だからせっかくだから、色んな種類のものを作ってお客様に楽しんでほしいんだけど、毎回同じものを作りがちなのよねぇ……。だから品評会のテーマはいい刺激になるんだけど。ユウくんなんて最近はあみぐるみにハマり続けるしね……」
そして最初の話題に戻ってくる。ユウはいつの間にか、黙々と手元の作業に集中していた。多分あれは、アヒルだろう。王国の建国だけでは止まらないかもしれない……。
「なんだかんだとみんな同じものを作りがちなのよね。美智代さんも……って美智代さんについては、今度きたときでいっか」
「品評会も無理にするものではありませんから、お忙しい方が多ければ、次の機会に、ということにしてもいいんですがね」
「でたわ。一番同じものを作り続けてる人が」
ことん、とおかわりのコーヒーを持ってきてくれたサチさんが、アッキーに向かってふふりと微笑む。同じもの、とはどういうことなのか。
「品評会はお客様方にご参加をおすすめしているものですから。私はいつも見るだけなんですよ。だから、常に【桜】に関するものを作っています。主には刺繍ですけれど」
そう言うサチが来ているエプロンには、桜の刺繍が描かれている。胸元から腰のあたりまでたくさんの花が一面に咲き誇っているようで、見る度に明るくなる素敵な柄だ。
「夫が、桜が大好きだったんですよ。お前の名前は幸子だからピンクの色が一番似合う、だなんて言われてしまって」
うふふと微笑むサチはとても嬉しそうにしている。
「サチさんのサチって、幸子さんってことだったんですか」
「あらっ。恥ずかしい。またうっかり惚気けてしまいました」
「嘘よ。全然恥ずかしいなんて思ってないわよ。いつものことよ」
「そうです。私は夫のことが大好きで大好きで……」
否定せずに肯定してしまうところが、こっちまでくすぐったくなるような、幸せのおすそ分けをしてもらっている気分だ。
「旦那さんと、とても仲がいいんですね……。別の日に一緒に喫茶店をしていらっしゃるんですか?」
【自由時間】がお互いあだ名で呼ぶのは、旦那さんのアドバイス、と言っていたことを思い出した。だからなんの気なしに問いかけたことだったのだが、アッキーとユウの二人が、ぴたりと手の動きを止めたことが奇妙だった。どうかしたのだろうか……と不安になると同時に、「いえいえ」とサチさんは首を横に振った。
「夫は数年前に他界していますの。以前は夫もいましたから朝から店を開けることもできましたけど、今は私一人ですからこんな夜にしか開けることができなくなってしまって」
「あ……」
しまった、と心臓がどきりとして、かちんこちんに固まってしまったみたいに冷たくなる。なんてことを聞いてしまったんだろう、と指の先まで痛くなって、しびれてくる。
(大好きな、旦那さんのことなのに。サチさんは、なんでもない口調だけど、辛くないはずがない……)
桜が大好きだった。そんな、曖昧な言い方をしていたからおかしいと思ったのに、深くまで考えることもしなかった。申し訳なくて、サチの目を見ることもできずに視線をさまよわせた。
「でも、【自由時間】がありますから。私は桜の刺繍をする度に、夫のことを思い出します。お客様にお出しする煮込み料理をじっくりと作る間に、台所に小さなスツールを置いて、くつくつと煮込む音を聞きながら……自分の中にいる、あの人のことを思い出すんですよ」
サチは、するりと二葉の手を握りしめ、丸メガネの向こうにある瞳を優しく緩ませた。知らぬうちに、細い指先をぎゅっと握り返していた。
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