第二章 二月の幸せは桜色

第6話

 今年は今までにないくらいに寒冬だそうで、しんしんと雪が降るような寒気が続いたが、暖かい部屋の中でコーヒーを飲むと、不思議と身体の底からぽかぽかしてくる。


「佳苗ちゃん、かぎ針持つのすごく上手になったわよね。様になってるっていうか」

「えっ、そ、そうでしょうか?」


 アッキーに声をかけられて、二葉はぱっと顔を明るくした。

 うんうん、とアッキーは頷いているが、今日の彼は首元にじゃらじゃらと鎖を巻いている。鎖の部分が肌に直接触れて寒そうだが、「おしゃれは一日にしてならずなのよっ!」と以前に言っていたし、好きは人それぞれだと二葉は思っている。

 美智代は今日は来ない日のようだ。客はアッキーと二葉、そしてユウの三人だけだった。


 はにかむ二葉の目の前には、ころころと小さなパーツが転がっている。

 現在作っているものは、クマのあみぐるみだ。ペンギンの次にクマ、というのはちょっと謎だが、可愛いのでいいと思う。顔と身体のパーツはすぐに出来上がったのだが、それと顔を膨らませるための同系色の鼻を作ることに手こずっていた。とても小さいので、手がどこにあみ針を入れていいのか分かりづらい。


「佳苗さんは簡単なあみ目記号ならもう覚えとるしな。めっちゃ偉いで」

「あ、ありがとうございます……?」


 きりっとした表情のまま、ユウはぱちぱちと両手を合わせた。反応に困るが、そろそろ二葉もこの編み物男子に慣れてきた。普段はあまり感じないが、編み物好きが興じすぎて彼は編み物人に誰しも優しいらしい。


 ちなみにあみ目記号とは、編み方の設計図に書かれている記号のことである。編み方ごとに×やTのような形が割り振られており、その通りに編んでいけば誰でも同じものを作ることができる優れものだ。


「ユウくんって最初仏頂面で、取っ付き難そうに見えるけど、気が抜けたら関西弁が出ちゃうから無口を気取ってるだけで、年の離れた妹さんもいるし、実はとーっても面倒見がいいのよね」


 オッホッホ、と高笑いする勢のアッキーに歯噛みするように、ユウはいらいらと「うるさいで」と文句を言う。「ほんまのこと言うなや」


 そこ、認めちゃうんだ。と二葉は考えつつあみ針を動かしていると、「言っとくけど、関西弁が出るってとこやからな」とユウは二葉を睨むように注釈を入れた。特に何も言っていないのだが、本人なりに気にするところがあるようだ。


「敬語なら大丈夫やねんけどな。こっちに越してきたのは十年くらい前やのに、それ以外は全然やわ。僕はもう関西弁しかあかんのかもしれん」

「ああ、じゃあ私と逆ですね」


 と、なんとなく付け足して返答する。これだけじゃ意味がわからないので、もう少し話そうとしたのだが、「皆さん」と、サチが声をかけてくれた。


「コーヒーのおかわりが必要な方は、いつでもおっしゃってくださいね」

「はいはいっ! あたし、二杯目お願いするわサチさん!」

「せやったら僕も」

「わ、私もいいでしょうか!」


 片手を挙げる勢いで願い出てしまった。「少々お待ちくださいな」とサチが穏やかな笑みでゆっくりと微笑む。目が合ったので、自然と二葉も同じような表情をしてしまう。


 二葉が手芸喫茶【自由時間】に顔を出すようになり、一ヶ月。しょんぼりとよく垂れてしまう二葉の眉は、つまらなさそうな顔をしていると勘違いされてしまうことも多々あるのだが、【自由時間】は、それぞれが手芸という趣味を通して一人の時間を大事に、そして楽しむことを目的とした喫茶店だ。

 みんな他人の顔色よりも手元に夢中だから、そんなところが嬉しかった。

 優しい人たちばかりでのびのびと、けれども恐るおそる、二葉は人生で初めて、を楽しんでいた。


(今までは時間があることが怖かったのに……水曜日が待ち遠しくなるだなんて)


 自分でも驚きの変化である。

 それはそうとして、二葉は自分の鞄の中身を、はたと思い出した。


「そうだ。ユウさん見てください、私編み物の本を買ってみたんです!」

「編み物の本? 教本か? そんなん【自由時間】にも置いとるし、僕が教えたるのに」

「さすがに毎回拝見するのは申し訳ないですし……それにユウさんだってこのお店のお客様じゃないですか。私に時間を使うより、自分のことをしてほしいです」

「僕は僕がしたいようにしてるだけやけどな。それで、買ったんはどんな本なんや?」

「これです!」


 【自由時間】に来る前に、ちょっとだけ本屋に寄ってみたのだ。意外なことに編み物コーナーには本がたくさんあって、好きな人がたくさんいるんだなぁ、と思うとわくわくした。

 ちょっとだけ自慢げに、二葉がドンッと本を机の上に置く。するとおかわりを持ってきてくれたサチが、コーヒーを置きながらも無言で本を見つめた。ユウはどこか渋い顔をしているようにも見えた。


「あの、どうかしましたか……?」

「教本には違いはありませんがねぇ……」

「うん。編み物は編み物でも、棒編みの、やな」

「ぼ、棒編み……? って、なんですか……?」


 新たに出てきた謎の単語に、二葉は彼らの顔と、手元の本を見比べるしかない。やからな、とユウは二葉が持つ本に手を伸ばして、ぱらぱらとページをめくった。


「編み物いうても、色んな種類があるんや。佳苗さんがいつもしとるのはかぎ針編み、それ以外にも棒編み、指編み、腕編みってのもあるし、あと材料の糸が違ったりとか、同じ道具を使っとっても編み方が違えば名称も変わってくんねん」

「はあ……」


 呆然とする二葉とは対称的に、編み物の説明になると途端にユウはいきいきとしてくる。


「中でも、やっぱりメジャーなんは、佳苗さんがしとるかぎ針編みと、棒編みやけどな」

「棒編みってあれよね。長い棒を二本を左右に持つやつ。絵本で見たことがあるわ」


 かぎ針ならしたことあるけど、そっちはあたし知らないのよねぇ、とアッキーがぺちっと自分の頬に手のひらを当てている。ユウはこくりと頷いた。


「せやな。編み物っていうと最初にイメージにくる人が多いのはむしろ棒針の方かもしれん。棒編みはセーターとかマフラーとか、大物を編むことが多いなぁ。もちろん僕もしとるし、楽しいで。でも、同じ編み物でも、かぎ針編みとはまったくの別物やねん」

「えっ」と驚きの声を出してしまった。編み物というからには、全部同じだと思っていたのに、別物とはどういうことなのだろう。


「共通点は糸を使って編むってことだけや。道具も違うから編み方もちゃうし、編み目記号ももちろん違うんや。人にも寄ると思うけど、棒編みの方が難しいかもしれへんな」

「あら、そうなの?」

「やって、ただのほっそい棒二本で編むんやで。そら大変やろ」


 編み物初心者である二葉とアッキーはユウの言葉になるほど、と納得した。


「なんにせよや。佳苗さんはかぎ針編みがしたいんやろ?」

「いえ、これは亡くなった父が使っていた道具なだけで、私自身に特にこだわりがあるわけではないんです……」


 話しているとどんどん語尾が小さくなってくる。なんとも自信のない言葉だ。二葉は幼い頃に父親が編み物をしていることに否定してしまったことに罪悪感を抱えていたため、編み物にはあまり関わらないように生きてきたから、本当に何も知らない。


(そうよね、手作りなんだから完成までに途中で作ってる姿があるはずなのに……だめだ! お父さんの手元だけぼやけてる! すごく、もやもやしてる……!)


 『二葉、新しい服ができたぞ!』『わーい! 可愛い、お父さんありがとう!』なんて会話しか思い出すことができない。幼い頃の無頓着さが如実に表れていて、頭が痛くなってくる。小さな頃は純粋に喜ぶことができたというのに、そこから先の自分の態度は、思い出すだけでも辛い……。


「あら。このかぎ針編み、お父様のものだったのね」

「は、はい。そうです」


 アッキーの言葉に、こくりと頷いた。二葉が持つ格子模様のケースに入った手芸道具だ。ユウが持つような通常のかぎ針は耳かきのような形をしていて片方だけが曲がっているが、これは両端の両方ともが曲がっている。


「グリップが樹脂できとるし、軽いから使いやすくていいかぎ針やな」

「本当ですか?」


 褒められると嬉しくなって声がはずんだ。どれも曲がっている『かぎ』部分の大きさが若干違うから、糸の細さによって使う場所を変えるらしいのだが、まだ二葉はピンとこない。だからユウに教えてもらうままに使用するかぎ針を変えていた。


「うん。レース針も。大切に、よう使われとる」

「レース針?」


 また知らない単語だ。そうや、ユウは二葉が持つ五本のかぎ針の内の一本を指さした。

 どうやらそれがレース針、という道具らしい。


「せやで。同じかぎ針でも、レース糸っていう細い糸を使うものはレース針っていって、レース編みいうんやで。かぎ針のグリップのとこに数字が書いてるやろ。この数字が大きいものは太い糸で、小さいものは細い糸を使うって目安になるんやけど、レース針は反対になるんや。数字が大きくなればなるほど、細くなるんやな」

「へえ……」

「でも、これはちょうど握っとるとこに数字があるから、かすれとる。もしかしたら佳苗さんのお父さんは、こっちの方がよく使ってはったんかもしれへん」


 と、ユウは説明しつつ、自分の道具を開き数字が書かれていないレース針を見比べた。


「これも両針やから、片方はレース針の4号やな。それで、読めへんくなってるのは6号なんちゃうかな。使う糸の細さは6号やと1ミリくらいやから、中々細かいで」


 本当に、自分は知らないことばかりだ。細くて軽い小さな道具なのに、両手で持ち上げると不思議とずっしりと重たく感じる。


(お父さんは、これで一体、どんなものを作ったんだろう……)


 作ってくれたたくさんの洋服は覚えているはずなのに、レースといわれると覚えがない。それに、あの洋服たちはどこにいったんだろう。小さな頃に着ていたものだし、大きさが合わなくなって処分してしまった可能性は十分にある。小学校の高学年になると、父親が作ったものということが気恥ずかしくて袖を通すこともなくなった。

 思い出すと、胸がぎゅっと痛くなる。


「……レース編み。そんなのも、してたんですね。全然知らなかった」

「せやったらもしかしたらやけど、棒編みもどっかにあるかもしれへんな。知らんかったら見かけはただのほっそい木の棒やし。ドラムスティックみたいな」

「ドラムスティック……」


 思わず繰り返してしまった。

 そうこうしている間に、時間も過ぎていく。クマのあみぐるみはまだ出来上がっていない。二葉はせっせと続きを編むことにした。ユウは二葉の倍以上のスピードでさらに細かな模様をつけて今度はネコを作っている。自然とみんな口をつぐみ、ちくたくと時計の針と、温かいコーヒーの香りだけが漂っていたのだが、「あ」とアッキーが顔を上げる。

 ちゃり、と首につけたネックレスが音を立てた。


「そういえば、そろそろあれよね。品評会の時期よね」

 と、のんびりと声を出したのだった。






 ユウと同じアパートと知ってから、お互い自然と一緒に帰るようになってしまった。なんせ【自由時間】から帰る目的地が同じなのだから、別々に出ても気まずいだけだ。

 編み物をしていることを知られたくないと以前に言っていたので、会社ではただの同僚のまま、顔を合わせても会釈程度なので、夜の道を歩きながらなんだか不思議で、ちょっと面白くなってしまう。


 ユウは細い顔をマフラーの中にもふりと埋めている。クリーム色と灰色の二色がバランスよく配置されているデザインで、暖かそうだ。多分それも手作りなんだろうな、と思うと改めてすごさを感じた。既製品みたいにしっかりとした編目なのに、デザインを探そうとすると中々なくて、手作りならではの良さを感じる。

 せっかくだし自分も作ってみたいと思いはしたが、今は大きなものより、たくさん、色んなものを作りたかった。それに二葉は寒さにはちょっと強い方だったりする。


「品評会のテーマ、結局決まりませんでしたね」

「うん。別に強制やないし、水曜以外にも通っとる人もおるから」


 帰りしな、ユウと話すのはアッキーが声を上げた『品評会』についてだ。

 品評会、といってもあくまでも【自由時間】の中で行うだけで、テーマを決めてそれに応じた作品を作る、というイベントを半年に一度行っているらしい。もちろん参加は自由で、作った作品は【自由時間】のディスプレイとして飾ったり、飾った後で持ち帰ったりしても良いらしく自由度が高い。

 ちなみに前回のテーマは【小さくて可愛いもの】。意外とざっくりしている。


「テーマがあったら、いつもとは違うもんに手を出すきっかけになるねん。僕なんて、前回あみぐるみを作って、そこからハマって今じゃ部屋の中であみぐるみ王国が建国したで。おお、さむ」


 ユウはもこもこなのに、ぶるぶると震えていた。寒さが苦手なのかもしれない。あみぐるみ御殿を阻止するどころか、新たな国ができてしまったとは大変だ。


「テーマ……ううん。でも私はいつもと違うものというか、まだ一つもちゃんとできていないので……」

「ほんま、なんでもええんよ。作る期間も一ヶ月にしよってしとるから、人にもよるけど簡単なものにする人のが多いしな。そもそも、参加せんでもええくらいやし。自分が好きなことをする喫茶店やのに、それに振り回されたら本末転倒やろ」

「そうなんですけど、今は手芸をするだけで楽しいんです」


 仕事が終わると手芸のことを考えてしまうし、手芸のために早く帰ろう、と頑張ることができる。「ふうん」とユウから聞こえた返事はそれだけだが、ちょっと嬉しそうだ、ということがわかる程度にはなってきた。


 夜九時を過ぎたばかりだが、【自由時間】からアパートまでは住宅街を通るから人通りも少ない。ぽつり、ぽつり、と一つひとつ家の窓に灯る明かりを見上げながら歩いていると、「なあ、大丈夫なんか?」と聞かれた言葉が何に対してなのかわからなくて、首を傾げてしまった。


「なんのことですか……?」

「あれや。たまにこそこそ言われとるやろ」

「ああ。ああー」


 話しづらい内容なのか、ユウはさらにすっぽりとマフラーの中に埋もれて、背中を丸めている。会社でのことだ、というのはなんとなくわかった。

 相変わらず、二葉のことをこそこそと話す声は聞こえた。中には嘲笑のように、通り過ぎるとわかりやすく笑われるときもある。


「仕事に支障があるわけじゃありませんから。別に問題ないです」


 もちろんそれだけでも辛く感じる人はいるだろうし、同僚たちの態度は決して褒められたものではないと思う。特に二葉を目の敵のようにしているのは、田端という同僚だ。エリ、と呼ばれて周囲から慕われている姉御肌の彼女とは新人のときに飲み会で隣になったときはにこやかに会話ができたと思っていたから、率先して陰口を叩かれていると知ったときはそれなりにショックだった。


『いつもつまらなさそうな顔をしているくせに、橘先輩をあっさりと持っていった。ああいうずるい子が一番嫌い』


 思い出すと、今も胸がずきりと痛くなる。でも、考えてみるとこのとき傷ついたのは、『つまらなさそうにしている』という部分だけだ。自分では楽しく思っているつもりなのに、違うと人に言われることに、もやもやとした気持ちがあった。


「今は、人になんと言われようと、あんまり気にならないので大丈夫です」


 もちろん、やっぱりちょっとは気になる。人はそう簡単には変わらない。でも、そのちょっとは、二葉にとっては大きな一歩だ。


「そんならよかったわ」

「それよりも、品評会のテーマです! きちんと次の水曜日までに候補を考えねばですね!」

「やから、気負うようなもんちゃうって」


 けらりとユウは楽しそうに笑った。マフラーから上げた彼の顔は、寒さで鼻の頭が赤くなってしまっていた。

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