第5話

 ***


 もう来ない、と言い切ってしまった場所へともう一度訪れるというのは、二葉にとって中々に勇気が必要な行動だった。手放しで迎え入れられるか、それともなぜ来たのかと呆れたような顔をされるか……ええい、ままよ、と飛び込んでみると、そのどちらでもなく、『いらっしゃいませ』とゆっくりと微笑んだサチの笑顔が眩しかった。


 アッキーや美智代は明るく迎えてくれたが、ユウは相変わらずせこせこと忙しそうに糸とあみ針を動かしていた。


 結局、勢いのままに無計画に訪れてしまったために何を作りたいかもわかっておらず、美味しいコーヒーを飲んで、何をするわけでもなく閉店時間よりも先に帰ってしまうという情けない結果に終わってしまったが、『自分の時間を大切にするための、【自由時間】ですから。コーヒーをゆっくり飲むというのも、素敵な時間の使い方です』とサチは伝えてくれた。


 水曜日が終わって、木曜日。まだまだ休みまでは遠い。でも、あと一踏ん張りでもある。

 朝ごはんをしっかり食べて、玄関の扉を開けて、きちんと鍵をしめる。


「……よしっ!」


 時間はまだまだ大丈夫。

 二葉のアパートにはエレベーターがないので、階段で下りるしかない。いつもなら急いで、安さに惹かれて三階に住んでしまった自分に後悔しながらため息をつきながら下を向いていたが、今日は一歩いっぽゆっくりと踏み降ろして一階にたどり着いた。

 そして、ほう、と息を吐き出した。


「なんだか、すごく頑張れそう……」

「あんた、同じアパートやったんか」


 聞き覚えのある不思議なイントネーションである。はっとして振り向くと、頬にほくろが一つついたイケメンが、片眉をひそめてこっちを見ていた。


「えっ、あの、えっ」

「あー……。今まで出社の時間がちゃうかったから気づかんかったんか。【自由時間】からも、僕よりも速く帰るし」


 そういえば、この間朝に会ったときもっとゆっくり出社してもよかった、というようなことを話していたような。


「え、えええ、ええええ」

「このアパート、【自由時間】からはそんな遠くないし、会社までは電車一本で行けるし、家賃も手頃やし。条件的にはええからな。そういうこともあるやろ」


 と、ユウは納得した顔をしているのだが。


「いやでもそんな……どうなの……えええ……」

「何ぶつぶつ言うてんの。はよ行くで。僕はこの年になって遅刻は嫌や」

「それは私も嫌ですけども……!」


 ユウは片手に通勤カバンを持ち、反対の手をダウンジャケットのポケットの中につっこみながらさくさく歩く。その後ろを慌てて二葉は追いかけた。けれども唐突にユウの歩幅が小さくなり、二葉の隣に並ぶ。


「あんた、これからも来るんか?」


 ユウはこっちも見ずに問いかけた。

 ぱちり、と二葉は瞬く。そして。


「……はい。行きたいです。私、一人の時間が好きです。だから、好きだと思うものを、大切にしたいんです」


 まだ、叔母と向き合う勇気はない。見ないふりをし続けていて、心の中の整理ができていないから。でも、【自由時間】に向かったときのように、きっといつか大丈夫だとそう思ってもいる。


「そうかぁ」


 すっとぼけたような返事に、くすりと笑ってしまった。

 その後しばらくの間ユウと二葉の間で会話が交わされることはなかったのだが、駅まであとちょっと、というときに「そんで、あんたの名前、なんなんや?」と問いかけられたので、ぎょっとしてしまった。


「えっ、い、今更、今更ですか……!?」

「いや、知っとるで。下の名前は佳苗やろ。でも喫茶店仲間としても、僕たち会社の同僚でもあるわけやし。いきなり僕から『佳苗ちゃん』って呼ばれても馴れ馴れしすぎてびびるやん」

「佳苗は名字です! 名前じゃありません!」


 どうりで名前は呼ばれずに、『あんた』とばっかり言ってくると思った。たしかに名前のような名字だから勘違いされることもあるが、あんたと呼ばれることにそこはかとなく心の距離を感じていたというのに、そんな理由だったとは。


「そうなんや。びっくりやな」と、ユウはマイペースにもぱちぱちと可愛らしく瞬きをして二葉を見ている。いやいやと首を振るしかない。


「びっくりしたのはこっちです……! 社内じゃ名札もつけてますから!」

「おっしゃる通りやわ。うっかりしとった」

「うっかりしすぎです! 観察力ゼロですか!」

「意外にでっかい声出るんやんか」


 何が面白いのか、ユウはくつくつと肩を揺らしている。別に二葉も怒っているわけでもなく、どちらかと言うと笑ってもらえて嬉しく感じているだけだ。しかし、そこはなんとか垂れそうになる眉を必死に吊り上げてみた。そしたら、ユウがさらに楽しそうに笑った。

 本当になんなのだろうか……?

 やっと落ち着いたらしいユウは、駅の階段を改札口に向かってとんとんと下りていく。


「ごめんやで。知ってるかもしれんけど、僕は水城勇斗や。【自由時間】じゃ、ユウって呼ばれとるから、それでええよ。せっかくやし、佳苗さんの名前も教えてや」

「ユウさんですね、わかりました。私は……」


 大人になってから、自己紹介をするときなど数えるほどだ。もちろん、新人の頃は嫌というほどしたけれど、いつも下を向いていて、ぽそぽそと話していた。自分の話なんて、誰も聞かないような気がしていたから。

 でも、今なら、そんなに卑屈に思う必要もなかったんじゃないかな、と感じる。


 ――よければ、お名前をお伺いしてもいいかしら?


 つい最近の記憶だ。サチに名前を問いかけられて、上ずった声を出して逃げるように顔をそむけた。そのときよりも、ずっとしっかりと顔を上げていた。階段を降りきって、息を吸って、落ち着いて。

 そして、できるだけはっきりと。


「私の名前は、佳苗二葉です。ユウさん、改めましてよろしくお願い致します。そ、それとっ! ペン太郎……すごく可愛いので、鞄につけてます! よかったら、今度作り方、教えてください!」


 しゅぱっと鞄を顔の高さに持ち上げ主張する。賄賂としてもらったあみぐるみの紐が、ぴろぴろとユウの眼前で揺れている。


「……僕の指導は甘々やで。編み物人口が増えることは大歓迎やからな。褒めて伸ばして立派な編み物人にしたるわ」

「えっ……あの、教えてくださいと言ったもののやっぱり申し訳なくも思うので……優しくされるよりむしろちょっと厳しい方が罪悪感が減って嬉しいんですが……」

「どんな不憫な性根やの……?」


 改札口を通り抜けると、ざわつくような日常が戻ってくる。

 けれど、どこかやっぱり違うような。

 わくわくした新しい時間が、やってくる。


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