第4話
待って、時間って、どういうことですか? ……と、聞けたらよかった。でもすぐに別の同僚が扉を開けて入ってきたのに、問いかけることができなかった。
(もう行かないって、言ったこと? でも別に、ユウさん、違った水城さんは店員さんじゃなくてただの常連さんだから、関係なんじゃないかな……? あっ、でもせっかく丁寧に教えてくれたのに、お礼もできてない……! なんということ……!)
自身の無礼にわなわなと震えつつ、高速で仕事を終わらせた。
昼休みになった瞬間、今すぐダッシュでお詫びの手みやげでも購入すべきかと財布をつかんだ二葉の肩をさらにひっつかんだユウは、そのまま二葉を連行した。
「え……何あれ。先輩の次は、水城さん?」
「嘘でしょ、手が早すぎない……?」
ちくちくと同僚たちの針のような視線と声が背中に突き刺さる。
「なんやねん、あれ」
「気にしないでください……」
ここまできたら、さっさと終わらせるに越したことはない。
たしかにまだ外は寒いから、と二葉たちが選んだのは屋上までの階段だ。もちろん、屋上への扉は鍵がかかっているが、わざわざここまで来るのは清掃業者くらいで、昼の時間にはそれもない。中々の穴場であることから、二葉の避難場所の一つでもあった。
「昼、食べるもんは大丈夫なんか?」
「パンがあるのでそれは、問題ないですけど……」
やったらよかったわ、と頬を緩めたユウの片手には、相変わらず可愛らしいお弁当袋である。彼女さんも毎日大変なことだ。
「あの、何か用が……」
「賄賂や」
「え?」
ユウが懐から取り出したのは、前回の【自由時間】でユウがどっさりと作っていたぬいぐるみだった。
「せやから、賄賂や。僕があの店に行っとるのは会社の人らには秘密にしてって言うたやろ。なんの種類がええか聞き忘れた。とりあえず、ペンギンなんてどうや。僕のおすすめや」
「か、可愛いと、思います……」
「おう。ストラップもつけといたで」
「でも、あの、もともと言う気もないというか、言う相手もいないので安心してもらえたらと」
「なんや、受け取られへんってことか。あんた、これ以上僕の家があみぐるみ御殿になったらどう責任とってくれんねん。編み物好きになってしまうとやな、次第に作ることが目的になんねん。やから後先考えへんで大変なことになるんや! 僕を助けんかい!」
「あ、う、受け取ります」
「なんや? 何言うたかよう聞こえへんのやけど」
「受け取ります! 助けますから!」
なぜだか脅されたので、涙まじりで勢いに押されて受け取ると、「うん」とユウは満足そうに頷いている。「飼い主ができてペン太郎も喜んどるやろ」ペン太郎って誰のこと、とまでは問いかけるもちろん勇気はない。
結局、話はこれで終わりなのだろうか。二葉は呆然と立ち尽くしていた。
ペンギンのぬいぐるみ、いやあみぐるみというらしい。淡い青と、白の糸が上手く使われ丸い顔が愛らしく、尻尾や腕がぴこっとはねている。目の部分はおそらく刺繍糸だ。
この間二葉が編んだアクリル毛糸とは違い、細い綿の糸で丁寧に編まれていて素人目にも上手いとわかる。頭の先から通されたストラップの先をつまむと、ぷらぷらと揺れた。
「とりあえず、飯でも食おうや。こないだは急いでもうたからな。外は寒すぎなんや」
こないだ……というのは、外のベンチで話したときだろう。たしかに、その日は二葉も忙しく昼を終えた。そのこともあって鞄の中からコンビニ袋ごとパンを持ってきたのだが、まさか本当に食べることになるとは思わなかった。
すっかりその場に居座ってしまったユウに困惑しつつも彼の隣――階段の上にお尻を載せてコンビニの袋からパンを取り出す。ユウのお弁当は、弁当袋の外見と同じく中身も可愛らしく彩り豊かだ。でも人様のお弁当をまじまじ見るのも失礼だと思って、慌てて前を向いたが、緊張して食べる気にもならない。
でもしょうがないから食べた。卵パンはいつも美味しい。
二人で無言のままもぐもぐと食べていると、「なあ」と声をかけられた。やっぱりそうなりますよね、と二葉はびくりと肩を震わせ、先回りすべく、ごくんとパンを飲み込み「すみません!」と声を上げる。
「せ、せっかく丁寧に教えてくださったのに、失礼なことをしてしまい、ここ、このお詫びは改めまして」
「いや別にそれはええねん。なんでもう来ないって言うたんや? 編み物、あんまり楽しくなかったんやろか。そりゃ、人それぞれなことくらいわかっとるけど。あのときのあんたは……僕には、楽しそうに見えたから」
「…………」
これは一見すると二葉自身を心配しているような、そんな言葉のようにも聞こえるが、きっと違うんだろうな、と思った。
寂しそうにしょげている姿は、二葉にとっては見覚えのあるものだ。
幼い頃に母を亡くし、父の手一つで育ってきたくせに、『二葉ちゃんの服ってお父さんが作ってるの? 男の人なのになんだか変だね』という、クラスメートからのなんでもない一言に、子供だった二葉は傷ついた。だから言ってしまった。お父さんが編み物をしているところなんて、大嫌い、と。父は、そうかぁ、と困ったように笑っていた。でも、寂しそうだった。それから父は二葉の前から編み物をしなくなってしまった。好きなことを否定されるのは誰でも辛い。当たり前だ。
だからいつか仲直りをしようとずっと思っていて、嫌いなんて言ったのは嘘だよと伝えたいのにさらにどんどんと距離ができて、でもいつか、なんて思っていたはずなのに、あっけなく父は二葉の前から消えてしまった。
残ったものは、父が使っていた道具だけだ。
何度だって後悔して、父が好きだった編み物のことを知りたいと思って、けど怖くて、ずっと逃げていた。……はずだったのに。
「すごく、すごく……楽しかった、です」
無心にあみ針を動かすと、ただの糸が自分が望む形に近づいていく。そのことが楽しくて仕方なかった。
「そんなら、また来たらええやん」
「楽しいから、駄目なんです! わ、私、勘違いしてました。手芸喫茶というなら、みんながいるものだと思ってたんです。もちろん、サチさんも、アッキーさんも、美智代さんも、水城さんもいらっしゃって、みなさん、とても良い方々ばかりです! でも、サチさんはおっしゃいました。手芸は、一人の時間を楽しむものだって……!」
その言葉を聞いた瞬間、ぞっとした。それだけはあってはならないことだった。
二葉はわななくように震える唇を必死に抑えてようとして、耐えきることができなくて、波のように感情がどんどん湧き上がる。
止まらなかった。
「私は、中学の頃から親代わりの叔母のもとで育ちました。叔母の家族はとっても温かくて、賑やかで……本当に私を家族のように迎えてくれたんです。嬉しかったんです。なのに、駄目で。唐突に、一人になりたくなるときが、たくさんあって」
つまらなさそうな顔や、いつも愛想笑いをしていると同僚から囁かれたことを思い出した。その通りだ。人といると、ときおり自分が何を言っていいのかわからなくなって、それ以上声が出なくなってしまうときがある。昔からそうだった。
自分は、こんなに――。
「私は、こんなに、叔母に優しくしてもらっているのに。それなのに。一人が楽しいのだと認めてしまったら、叔母の家族と一緒にいることが苦しいんだって、認めてしまうことになるじゃないですか……!」
言葉を吐き出したとき、その通りなんだとわかった。ずっと認めないように、見ないようにしてきたことだ。父が持つ手芸道具の名前すらも調べないようにして。
楽しいと、知ることが怖くて。
(……だめだ)
涙がにじみそうになったから強く瞳をつむって、化粧が落ちないようにそっと目尻を指先で押さえた。そしてゆっくりと瞳を開けたときに、今ことのときが、とても不思議なように感じた。長年、二葉の胸の奥で自分自身でさえも気づかないように、蓋を開けないようにときつく縛り付けていたはずなのに、ほとんど見ず知らずのような相手にこうして胸の内を吐き出している。
知らない相手だからこそできたことかもしれないが、なんにせよ、惨めなことに違いはない。ユウは何も言うこともなかったが、弁当を食べる手は止めているらしかった。
唐突に恥ずかしさがこみあげてきた。
「こっ、こんな、身の上話をごめんなさい。あくまでも行かない理由は私にあると、言いたかっただけなんです。編み物はすごく楽しくて、絶対に素敵な趣味です! ですから……」
「いや、それって」
二葉の声にかぶさるように聞こえた声に、ぴたりと二葉は動きを止める。
「みんなといるのが嫌なんやなくて、一人でいるのも、みんなでもいるのも、両方好きなだけなんやないか?」
「え……」
「あ、僕がそうやから、そう言うただけやで。でもそうか。理由があるならしゃあないわな。無理強いはできんわ」
がつがつ、とユウは弁当を食べ始めた。
二葉はパンを持ちつつ、大きな目をさらに大きくしたままその様をただ見つめた。
ごっそさん、とユウはぱっちんと手を合わせた。
「編み物人口が増えるんならって思って、つっぱしってもうたけどすまんかったわ。でも気が変わったならいつでも来てや。サチさんらも、そう言うやろ」
弁当の片付けをして、「ほな。ペン太郎の世話、よろしくやで」とひらりと手を振り、消えていった。嵐のようなひとときだった。
誰もいなくなってしまった階段で、二葉はぽんやりと先程までの会話を思い出す。
「両方、好き……?」
一人でいるときも、みんながいるときも。
――そんなこと、考えたことがなかった。
ユウの言葉は、二葉の中にある価値観をがらりと変えるようなものだった。一人が好きだなんて思ってはいけないと、ずっと自分を縛り付けていた。それが両方好きなだけだと思うと、なんだか足元がふわふわした。
いつも通り帰宅すると隣に住む女子大生と顔を合わせた。黒髪で、柔らかい雰囲気が可愛らしい女の子だ。にこりと笑って会釈をされたから、二葉も慌てて頭を下げた。あんなふうになりたいといつも考えていた。
誰かと一緒にいることを素直に楽しいと思えて、叔母が不安に思わないように彼氏もいて……。就職したことを理由に、二葉は逃げるように叔母の家を飛び出した。もうちょっと会社に慣れてからでいいんじゃない、と心からの心配を大丈夫だからと笑顔を固めて。
鳩美を、嫌だと思いたくなかったから。
「だって、鳩美さんのこと、好きだもの。そうだよ、私……」
家に帰って化粧を落とした後に、飛び込むようにソファーの中に埋もれていた。ついでとばかりに近くにあったクッションをぎゅっと胸で抱きしめた、のは一瞬で、体幹を使ってぐいっと起き上がる。丁度、目の前にはカレンダーがあった。明日、明後日は土日だ。
「よし、それなら……!」
次の日、二葉はゆっくりとした朝の時間を過ごした。
普段は土日は忙しく、慣れない家事に奔走して、平日の食事のためとスーパーで大量に食事買って、冷蔵庫をパンパンにする。料理は得意だけど、一人暮らしになってからは簡単なものしか作っていない。平日の朝はコーヒーだけを一気に飲み込んでいる。
意味もなく、ずっと気持ちが焦っていた。いや、わざとそうしていた。忙しければ、何も考えずにすむから。大変だと思えば、叔母の家から逃げ出した罪悪感が少しでも減るような気もした。
ちゃんとパンと目玉焼きを焼いて、カーテンを開けて朝の光をいっぱいに浴びる。洗い物は以前作ったエコたわしでしてみた。使ってみると可愛いスポンジ、という印象だった。台所で、いつもは洗剤を入れているかごを外して、かわりにエコたわしを引っ掛けてみると、自宅の台所のはずなのにまるで別の場所に来たみたいだ。
スーパーに行くのはいつものことだが、同じものばかりを買うのではなく、意識して見回すと色んな物が売っていた。ちょっといいコーヒーを買って、自転車のかごにレジ袋を入れ、土手の上を走り抜ける。吐き出す息は冷たいのにダウンがもこもこしていて温かく、指先だけが寒さにかじかみ、ちょっとだけおかしかった。
冷蔵庫に買った物を入れて、お湯を沸かす。カーテンをいっぱいに開けているから、太陽の光が部屋の中いっぱいに広がり、雲ひとつない青い空が見えている。
ケトルのボタンが、ぱちっと切れたということはお湯が湧けたということだ。スーパーの袋から出しておいたちょっといいコーヒーを準備する。マグカップの縁にコーヒーの粉が入った紙をひっかけ、いざ、とケトルのお湯を勢いよく注ごうとした。が、ちょっと待て、と息を吸う。それから吐き出す。
ゆっくりと、ケトルを傾けた。ぽこぽこ、とお湯が流れ出ると、素敵な香りが漂ってくる。急がず、ゆっくり。
「いい匂いだなぁ……」
勝手に頬が緩んでしまう。
マグカップの取っ手を持って、お日様がさんさんと当たる一人がけのダイニングテーブルに移動した。コーヒーを、一口。ため息が出そうなほどに、美味しい。
カップの温かさを覆った両手で感じながら、ぽつりと呟いていた。
「そっか。私、一人暮らしをするの、楽しいんだ……」
自分の声が、じんわりと胸の中に広がっていく。
そうだ、楽しかった。きちんとした一人の時間なんて初めてで何をするのも嬉しくて仕方がないのに、叔母への罪悪感が胸を焼き、忙しくして、自分自身がわからなくなるように必死だった。
彼氏に振られてしまったときショックな気持ちはあったが、まず考えたのは、時間ができてしまうということだ。定時に帰らなければいけないのに、水曜日はどうしたらいんだろう、とそっちの方が重要で頭の中でぐわんとなった。そんな自分は振られて当たり前だった。
「……どうにかして時間を潰さなきゃって、そんな言い訳がないとずっと気になっていたお店に入ることもできないだなんて。呆れて、笑っちゃうな……。みんなでいるのも、一人でいるのも好き。……それで、いいんだ」
ユウにとっては、本当になんでもない言葉だった。けれど、人生を変える言葉だなんて、案外そんなものなのかもしれない。
***
「佳苗ちゃん。やっぱり来ないのかしらぁ。ねえ、ユウくん。何か知ってる?」
「知らんけど、来ないんちゃうか? 本人が嫌やってんならしゃあないわな」
「ううんっ。そんなこと言って! 編み物ファンが増えることにほんとは尻尾がちぎれそうなくらい喜んでたくせにぃ!」
「否定はせぇへんよ」
「んもう、この正直者ぉ! そんなとこが可愛いわ!」
「アッキー、ユウくん。二人とも静かにしてちょうだいよ、手がブレるじゃない」
「ああん、美智代さんごめんなさいっ! はあ……サチさん、コーヒーのおかわりいただけるかしら?」
「はいはい。お待ちくださいね」
せっかく可愛い子が新しく来たと思ったのに、飲まなきゃやってらんないわとしょげるアッキーを無視してユウは手元の作業に集中した。が、頭の中では別の気になることで一杯になってくる。それを除いて、集中して、すぐにまたやってくるの繰り返しだ。
(叔母さんのとこで育った、とか言うとったな。僕にはようわからんけど、色々気を揉むことも多いんやろうなぁ……)
二葉のことは会社の同期ということはわかっていたが、目立たず、垂れ眉のしょんぼりとした表情をしていて、声も身体も小さいという認識しかなかった。二葉も本人なりには大きな声を出しているつもりなのかもしれないが、ユウとともに昼食を取ったときでさえも、本気で耳を傾けないと何を言っているかわからないときもあったくらいだ。
聞こえないから聞こえない、と言っただけのつもりだったのだが、ちょっと泣かせてしまっていたかもしれないと今更ながらに少し後悔もやってきた。
(……でも、そうやな。編み物は、素敵な趣味。そう言っとったときだけ、でっかい声、出しとったなぁ)
握っていたパンが手から飛び出しそうになるほど、と思い出して、ちょっとだけ口元を笑わせる。どうしたの、とアッキーが問いかけたので、すん、といつも通りの顔を作ってみた。でも、頭の中にあることはやっぱり一つだ。
今日は【自由時間】の開店日であり、そして【残業しないでー】だ。彼女が唯一来る可能性がある日でもある。
……と、なれば。どうしても店の外に繋がるドアが気になってしまうのは仕方のないことだと思いたい。そのときだ。ドアの上部のモザイクガラスに、誰かの影が落ちた。「あっ」とユウは立ち上がった。何事かと店内の視線がユウのもとに集まったことに気づき、素知らぬ顔ですとんと座った。そして手元に目を落とす。
彼女が入ってきたとき、さぞなんでもないことのように顔をして迎えなければいけない。
からん、とドアベルが音を鳴らし、外の空気が入り込むまで、もう少しだ。
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