第3話


(というか、お父さんの形見を忘れちゃうだなんて本当にどうかしてる。取りに行かなきゃ、でもあんな風に帰っておいて……)


「佳苗さん、ちょっと、佳苗さん聞いてるの!?」

「えっ、はい。聞いてます、もちろんです!」


 はっとして両手をパソコンのキーボードから両手を跳ね上げ、声の主へ顔を上げる。同じ部署の同僚だった。胸に提げられた名札には、【田端】と書かれている。二葉としては大きな声で返事をしたつもりだったのだが、「聞いてるの? 聞いてないの? どっちなのよ」と田端は眉をひそめ、眉間の皺を深くする。


「き、聞いてました……。ええっと、営業部の新しい方がやってくるんですよね。お互いにどういった仕事をしているかを把握をして、業務の効率を上げるため……でしたか……? あとで机の確認と荷物の整理をしておきます」


 ふん、と鼻で返事をされてしまった。はは、と二葉は愛想笑いをしてしまった。それがよくないとわかっているのに、何を言えばいいかもわからない。


「聞こえてるなら、最初からそう言いなさいよ」とだけ言われて、背中を向けて去っていく同僚の姿をどうしようもなく見送り、新たに頼まれた仕事に取り掛かるべく、まずは止まっていた作業を進めようとしたのだが。


「エリ、ちょっとくらい優しくしてあげなよ。佳苗さん、橘先輩に振られたばかりなんだから……」

「そんなのいっつもつまらなさそうな顔をしているか、愛想笑いばっかりしてる自業自得じゃない。少し可愛いからって調子に乗って」


 さすがに、文字を打つ手の動きも遅くなる。


(調子に乗ってるつもりは……ないんだけどな)


 振られたことは事実だとしても仕事に支障はきたしていないはずだ。それでも、周囲の目にそう映るのなら自分にも非があるような気もした。


(先輩のことはともかく、昨日のかぎ針のことが気になってるのは事実だし……集中しなきゃ。っていうか、橘先輩とのことは鳩美さん以外に言ってないんだけど、みんななんで知っているんだろう)


 その叔母の鳩美ですら、別れたことを知らない。そんなに自分はわかりやすいのだろうか、と眉間に人差し指を当てて、とんとん叩いた。まあいい。集中、集中。


(とりあえず、今日はこのデータを打ち込んで、駄目なところは精査して修正して返却して……。残業をしない日があるってことは、その分効率的にしなきゃ回らなくなるってことだよね)


 ぐるぐる回る気持ちは忙しさの中に紛れていく。

 ぱた、ぱたぱた。キーボードを打つ音が、次第に時計の針の秒針のように時間を進ませてくれた。






 ――だから、二葉は自分が持っていた違和感の原因に気づかなかった。


「今日から営業部から引っ越してきてくれた水城くんだ。水城くんの業務は基本的には営業部の頃と変わらないが、今までは階が違う分、総務と営業、互いの仕事が見づらかったと思うが、距離が近くなる分、見えてくるものもあると思う」

「水城勇斗です」


 ぺこり、と頭を下げた紺のスーツを着た長身の男性の言葉を周囲は待ったが、水城はぴん、と背筋を伸ばしたままじっと立っているだけだ。多少の困惑のざわめきもあったが、総務部は女性の社員が多く大半は好意的に捉えているようだ。真っ直ぐに前を見る水城の頬にはほくろが一つついていて、眼光鋭く吊り上がった瞳は話しかけ辛く見える。でもイケメンだった。


「来てくれるの水城さんだったんだ」

「でもあの人、彼女持ちでしょ」

「いいじゃん、目の保養」


 本人には聞こえないように喜びの声がちらほらと聞こえるが、二葉にとってはそれどころではない。


(あ、あの人、昨日会った、『ユウくん』……!)


 そうだ、これこそ彼が店に入ってきたときに二葉が抱いていた違和感である。

 二葉と同じ二年目で、言葉数は少ないものの男前。しかし彼女持ちであるために遠い距離から目の保養として眺められているらしい。噂に疎い二葉は、あまり深く記憶に刻まれていなかった。


 なんとも言えない気持ちのまま、パチパチと拍手しつつ水城を迎え、横を通り過ぎようとしたときである。


「後で、ちょっと」


 小さな声で囁かれた。びくりと震えつつ顔を上げると、眼光鋭く、『ユウくん』は二葉を見下ろしていた。






「サチさんが困ってた」


 さっそく昼休みに呼び出しされた。まだまだ寒い日々が続いているから、外にあるベンチは誰も利用したがらない。水城は長い背を折りたたみつつ、二葉とは距離をあけて隣に座っている。反対側には弁当袋が置かれていて、それがまた意外なことに可愛らしい。なんせ、クマさんがついていた。彼女がいると水城が噂されている所以である。

 水城は黒い瞳でじっと二葉を見下ろし、さっそく目的を伝える。


「同じ会社だと伝えたら、伝言を頼まれた。金をもらったのに帰られてしまった、申し訳ないから、もう一回来てほしい、だと」

「いえ、勝手に帰ったのは私で」

「忘れ物も返したい、とも言ってたな。大事なものなんじゃないのか」


 それだけ話されて、「時間貰ってもうて、わるかったな」と立ち上がる。あれ、と思った。

 水城も、あっとしたようで、自分の口を手のひらで覆った。


「じゃ、そういうことで」


 でもすぐになんでもない顔をして、眉をきりっとさせている。クマさん効果か、この間よりも怖い人のようには思わなかった。


 二葉は膝の上に両手を載せて、ぴたりと足をくっつけながら困ったように見上げた。肩より少しだけ長い髪が、さらさらと風に流れる。その頃には水城は弁当袋の紐を持ちながら消えていった。

 お弁当は自分で作ったのかな、それとも彼女さんかな、とどうでもいいことを考えてふうと息をこぼした。






 どちらにせよ、父親の形見を取りにいかなければならないことに違いはないのだ。行くことができるのはノー残業デーの水曜日だけだ。というわけで次の水曜日、二葉はまた【自由時間】に向かった。


 店の前に立つと、一週間前よりもさらに緊張している自分がわかった。

 ふう、と深呼吸して勢いよくドアノブに手をかけるとなんの抵抗もなくドアが開いた。びっくりして見上げたらこの間の金髪の男性が立っていた。たしか、アッキーだ。


「わあ、佳苗ちゃん! サチさん、佳苗ちゃんが来てくれたわよぉ!」

「あらほんとう。よかったですねぇ」


 そうしてぽん、ぽん、と背中を押される形で入店してしまった。


「コートかけはここで、荷物もここ! あのねぇ、ドアの前で誰かがいる気配がしたから、もしかしてって出迎えちゃった!」


 アッキーは両手を合わせてきゃんっと飛び跳ねている。ドアも窓と同じくモザイクガラスになっているから、誰かが立てばわかるのだろう。長い時間その場で立っていた自分のことを思い出し、途端に恥ずかしくなってしまったとき、同じようにガラスに影が映る。


 入ってきたのは水城だ。

 二葉と目を合わせると、「ああ」と水城はそれだけ呟いた。そしてマフラーをほどきジャケットを脱いで、以前座っていた場所と同じところに座っている。なんで隣に座るの、とあのときは困ったような気持ちになったが、どうやら水城がいつも座っている指定席だったらしい。


「ごめんなさいねぇ、あのときはユウくんがちょっと怖かったのよね。申し訳なかったわぁ……」

「え? そうやったんか?」

「そうよ! あんた気づいてなかったの!」

「どうぞ佳苗さん。コーヒーで大丈夫でしたか?」


 今日は美智代という女性はいないらしく、サチは三つのカップを盆に乗せてわいわいしているアッキーと水城、そして二葉の前にコーヒーを置いた。慌てて二葉が財布を取り出そうとすると、「前回いただいていますので、サービスさせてください」と止められてしまう。


「またお会いできてよかったです。こちらお預かりしていたものですよ」

「あの……前回は本当にすみませんでした、私……」

「いいええ。私が勝手に気に病んでいただけですもの。むしろ、ここまで来ていただきお手間を煩わせてしまって……。ユウさんのお知り合いと聞きましたから、間になって渡していただければとも思ったんですけど……」


 二葉はほっとしつ、サチが両手で渡してくれたかぎ針を握りしめた。すぐに中身も確認した。五本、きちんと全部入っている。


「そんなん大事な道具を人づてなんて、嫌な人もおるやろ。すくなくとも僕は嫌や」


 ぷい、と顔をそむける水城を見て、そういうことだったんだ、とはっとした。細かいことを言う子ねぇ、とアッキーは水城の頭を小突いているが。


「それでですね、以前にお金をいただいてしまっていますし、もし佳苗さんが来ていただけたのなら、ご案内したいと思っていたものがありまして……」と、サチが見せてきたのはかぎ針編みの教本だった。


「作りたいものも明確ではないとおっしゃっていたので、こちらを見つつ、練習がてら、ご一緒に何か作ることができればな、と。毛糸の材料ならたくさんありますから、この中に書かれているもの程度なら、何でも作れますよ」


 老婦人の穏やかな声を聞いて、来るかどうかもわからない人間のためにわざわざ準備をしてくれていたのだと思うと、申し訳のない気持ちでいっぱいになった。水城の視線を強く感じるような気もしたが、父が持つかぎ針はずっと二葉の胸のしこりのようになっていた。だから、ぜひお願いします、と勝手に口が動いてしまった。




「そう、まず編み物はかぎ針に糸の輪を通さなければいけません。かぎ針編みは一針、一針編み進めていく必要がありますが、これを【目】といいます。覚えなければいけないのは、最初の目の作り方ですね」


 二葉の隣に座りながら、開いた教本をサチがそっとなぞり説明してくれる。

 たしかに毛糸というのはただの紐だ。これをどうしたら紐から形になるのか考えたことがなかった。毛糸の持ち方も決まっているらしく、利き手の反対、二葉の場合は左手の小指と薬指に糸をはさんでそこから人差し指にひっぱり親指と中指で挟む。ここでやっと準備ができて、ぴんと張られた糸をかぎ針の曲がっているところですくって、くるりとひっくり返して輪を作り、その中から糸を引き出すのだ。


 難しいように見えたが、意外にも簡単な作業だ。しかしもちろんこれで終わらない。


「次は、鎖編みですねぇ」


 と、サチが見せたページには文字通り鎖のようにずらっと糸が続いていた。どうやら同じ作業を繰り返せばいいらしい。集中すると二葉の口数も少なくなる。相変わらず隣からは水城の視線を感じたが、今は気にならなかった。


 十センチ程度の長さになるまで二葉は鎖編みを続けた。

 慣れた人ならさくさくと進めるのだろうが、試行錯誤で進んでいるから時計の針のスピードもどんどん速くなってくる。


「これが一段目です。次は二段目を作って、どんどん縦の長さを伸ばしていくんですが……ええっと、あら……? 立ち目の作り方は……?」


 ぴらぴらとサチがページをめくって確認している。二葉は困った。このままでは、延々と長くて細いミサンガみたいな紐ができてしまうだけだ。


「ああもう! サチさん、この編み図なら、立ち目は鎖編みをもう一個作るだけや。そんで、巻き戻って鎖の裏山、ちょっとでっぱったとこにあみ針を入れんねん。……うん、そこや!」


 身体を乗り出すように飛び出た水城の勢いに押されて思わずかぎ針を動かしてしまった。かぎ針とはあみ針ともいうのね、と考えつつも、いきなりの驚きで目を白黒させてしまう。


「編み方を書いてる設計図のことを編み図っていうねん。この通りに作ったら本と同じものができるんや。この×マークは細編みって意味で、作った鎖編みにあみ針を入れて、向こう側の糸を引っこ抜く。そしたら目ができる。それを鎖編みを作った分ずっと繰り返ししていくんや」


 これで二段目は終わりやで、と腕を組んでむん、と鼻から息を吹き出す青年は、会社で見るクールで無愛想、でも彼女持ちで残念……と女子社員から噂されている人と同一人物にはとうてい見えなかった。


「佳苗ちゃん、あのね」と、手元の作業を止めたアッキーが顔を上げて、苦笑しながら教えてくれる。


「ユウくんは一見すごーく無愛想なんだけど、ホントはねぇ、あんまり話すと関西弁が出ちゃうからなるべく静かにしてるだけの、とっても手先が器用な編み物男子なのよ」

「編み物男子……?」


 たしかに、ところどころ関西弁になっていることはわかっていたが、さらに意外な属性だった。しかし二葉が自分の手先に集中していて気づいていなかっただけで水城――ユウの目の前にはずらりと小さなぬいぐるみが並んでいる。クマや、猫、犬はわかるが、なぜか豚やペンギン、カエルなどあまり見ないものも並んでいる。丸くデフォルメされた姿がかわいい……のだが、ぬいぐるみというにはどこか違う気がする。編み目が見える、ということはまさかあれもかぎ針で作ったのだろうか? いつの間に……。


「もともと、あったパーツをくっつけただけや。大したことはしてへん」


 二葉の視線の意図を理解したのか、そのままぷいっとユウは視線をそむけた。


「いえ、あの、すごく……かわいいなって」

「そんなら、あとでやるわ。でも、会社のやつらには僕が編み物するってことは言わんといてや。賄賂やからな」

「賄賂ですか……」


 健全な賄賂もあったものである。


「えっと、ありがとうございます。ストラップにできそうですね……?」

「ストラップか。ええな。待て、僕のことはええねん。次はそっちの三段目やな」

「あらあら。ユウさんが教えてくださるのなら安心ね。私も編み物をしたのは随分前でちょっと自信がなかったんですよ。よかったわあ」

「えっ。いや、僕は」

「サチさぁん、あたしお腹減っちゃったのぉ」

「はいはいアッキーさん、いつものやつですね」


 笑い皺をさらに深くしてサチは店の奥へと消えてしまう。二葉はユウと顔を合わせた。

 ……いいんだろうか。彼は店員というわけではないし、二葉と同じくお金を払って【自由時間】を利用しているだけなのに。教本もあることだし、ここまできたら自分でなんとかしてみよう、と声をかけようとすると、「とりあえず二段目、最後まで編めたんやな?」と確認されたので、こくこくと頷く。


 ユウはがたりと音を立てて椅子を移動させた。やっぱりちょっと近い、と二葉はのけぞるが、相手は至って真面目に教本に書かれた編み図を見ている。恐るおそると二葉も背筋を真っ直ぐさせて、糸とあみ針を持ちつつ本の中を確認する。


「これ、練習用で色々できるようにしてるんか。そんなら次は中長編みやな、Tの形のとこや。途中まで細編みと同じやけど、もう一回糸をひっかけんねん。うん、合ってるで」


 今度は細編みで作るよりも、もう少し長い編み目ができた。最初にしたときは長い道のだと思っていたが、今では長方形になっている。初心者用の編み図だから、覚える記号は数えるほどだ。次第にユウのアドバイスも不要になってきた。そうすると、楽しくなって、どんどん進む。


 ちくたくと時計の針が動く音すらも気にならないほど、二葉は集中して作業を続けた。






「で、できた……」


 やっと編み終わったとき、二葉はほう、と息を吐き出した。慣れないあみ針をずっと握りしめていたせいか、右手がしびれているような気がする。


「ん、最初なら上出来やろ」


 ユウの反応も意外なことに上々だった。むしろ彼は、二葉の父と同じく誰かが編み物をしているのが嬉しくて仕方ないだけかもしれなかった。


 夕食らしきご飯を食べ終えたアッキーも「ごちそうさまでした」とぱちりと両手を合わせつつ、二葉に声をかけてくれた。


「佳苗ちゃんお疲れ様。すごいじゃない、ちゃんと最後まで出来るだなんて。手芸ってやりきるのが案外大変なのよねぇ」

「ありがとうございます、でも、教えていただきつつですし、そもそも簡単なものだったので……」

「そんなことないわよ。最後までやり切るのって何をするにしても大事なことだもの……それで、何を作ったの?」


 二葉がほくほくと両手で握りしめているのは正方形をしていた。編み目のばらつきはあるものの、最初は紺色、途中段を変えて黒になり、次に赤、また紺色、とボーダーになっている。さらに端には鎖目を丸くつないでひっかけも作った。これは編み図になかったのだが、ユウが提案して教えてくれた。二葉はぐっと力を入れて、両手で持ち上げてしまう。


「エコたわし、です……っ!」

「えこたわし……ああ、洗剤がなくてもお湯で汚れがとれるってやつねぇ! いいじゃない。文字通り、エコねエコ!」


 アッキーは頬に手を当てつつしきりに感心している。薄々気づいていたが、この人はとても褒め上手な人だ。なんだか少し照れてしまう。


「エコたわし使うときは最初に新聞紙とかで大まかな汚れを落としてからやないとあかんで。そんで洗うときはお湯を使うんや。使った後は軽く洗って、天日干ししといたら何度でも使える」

「本当に洗剤を使わなくてもいいんですねぇ……」

「アクリル毛糸を使っとるからな。アクリルは繊維が細いから汚れが落ちやすいんや」


 へぇ、と二葉は出来上がったエコたわしを触った。ぺらりとしていて柔らかいが、糸自体はしっかりしている。二葉の父も編み物はよくしていたが、こういった小物を見たことはあまりなかったから新鮮な気分だ。とはいえ食器を洗うときは洗剤を使って、という認識がしっかり根付いているから、使わなくていいと言われても不安になる。


 でも使いたい、とじいっと二葉はエコたわしを握りしめたまま考え込んでしまった。すると二葉の心情を察したのか、「別に、洗剤を使ったらあかんってことはないで? 僕なんてスポンジ代わりに使っとるし」と説明してくれる。


「それじゃあエコの意味がないじゃないのよぉ」

「やって可愛いやんか」

(えっ……)


 あっけらかんとした顔で話すユウを見て二葉は驚いた。父以外にも、男の人で可愛いとあっさりと言う人がいるんだ、と。


「いちいちお湯とか、汚れを落としてからとか忙しいときにそんなこと言ってられへんときもあるやんか。アクリル毛糸なら100均でもいい色が揃っとるし、お手軽やねん」

「うーんたしかに。ねぇユウくん、あたしもほしくなっちゃったわ」

「別にええよ。一ダースでええか?」

「軽いお願いが重たい返しで来るのにお兄さんびびっちゃうわ。そんなにいいわよ大変でしょ! でもとりあえず二枚お願い! 代わりにあたしの手芸品をあげちゃう!」

「いらんよ。アッキーのはあれやろ。僕がもろてもどうしようもないやん」

「じゃあ茉莉ちゃんにあげてちょうだいっ。こういうの、ただでもらうのは性に合わないのよぉ。だってお互いの大事な時間を使ってるわけでしょお?」


 いやんいやん、と身体をくねらせているアッキーをあっさり流して、「ほんなら、そういうことで」とユウは会話を終わらせている。


 二人の掛け合いはさておき、二葉はふつふつと湧き上がるような感情が胸の内にあった。

 手芸とは、もっと大変なものだと思っていた。もちろん、アッキーに説明した通りにユウやサチが助けてくれたこその結果だが、これなら本を見ながらなら二葉にもできそうだ。


 それに材料は手芸店に行かなければいけないと思っていたけれど、100均でも集められるのなら意外と敷居も低い。今日は使う糸も少量だからとサチの好意に甘えてしまったが、いつまでもこれはいけない。月会費を支払えば【自由時間】を利用する会員達が寄付した材料を使用できると言われたがメインではなく、あくまでもサブとして考えるべきだろう。


 と、ここまで二葉はじっくりと考えたときに、すでに自分はこの店に通おうとほとんど決めていることに気がついた。


(父さんが大好きだった編み物……。今までは、知ることが怖いと思っていたけど、そんなことなかった。すごく、楽しかった)


 初めて作って、出来上がったことが嬉しくてたまらなくて、早く家の台所に持ち帰りたい。時間を見ると八時を過ぎていた。五時に会社が終わって、五時半には入店したから、いつの間にか三時間近くも集中していたらしい。【自由時間】は午後九時までの営業だが、明日のことを考えるとそろそろお暇したいところだ。


 店主のサチも、二葉たちと同じく丸テーブルの上でちくちくと針を持って作業をしていた。じっと見つめていると、ぱちりとサチと目があった。丸メガネの向こうの優しい瞳が優しく細められた。


「佳苗さんは月会費をもういただいていますから、もしお時間さえあれば、またご来店くださいね」


 はい、と思いっきり返事をしようとしたが、そこで一度押し留まってしまうのが二葉だ。今日は興奮して少し調子に乗ってしまっているが、落ち着かなきゃ、と自分に言い聞かせる。


「そうですね、できたら、また、その」


 行きたいです、と続けようとしたとき、「ああ、そうでした」とサチは、ぱちんと両手を合わせた。


「【自由時間】のコンセプトをお伝えしておりませんでした」

「サチさん、ちょっと説明が抜けすぎじゃないかしら……」

「誰しもうっかりはございますもの」

「毎度のことだけど、まったく後悔しないわよね……?」


 うふうふと会話をし合うサチとアッキーだが、ユウは我関せずといった様子で黙々とあみ針でぬいぐるみを作り続けている。フリーダムだ。


「コンセプトというのは、手芸をみんなでできる喫茶店……ということじゃないんですか?」

「そちらも間違ってはございませんよ。ただ、【自由時間】は、色んなお客様がやってっきてくだしあますが、お客様一人ひとりのお時間を大切にしていただくことを願っておりますの」

「一人、ひとり……?」

「もちろん、今日のようにお話をしていただくことも自由ですとも。けれど、たとえ何人の方々がいらっしゃったとしても、手芸をしているときは誰しも一人きりです。自身の作品に向かい合うことができるのは、自分自身しかいませんから」


 どくり、と心臓が痛くなった。やっと出来上がった、と嬉しくて握りしめていたはずのものが、途端に無価値なもののように思える。

 サチは続けた。


「【自由時間】では、たとえば美味しいコーヒーをゆっくりと飲むように、手間のかかる料理をことことと煮込む時間を楽しむように、みなさんに一人を楽しんでもらうようにとお願いしているのですよ――佳苗さんも、よければ」

「ごめんなさい」


 吐き出す声は、自分でも驚くほどに固く、冷たい。


「多分、こちらにはもう来ないと思います……。たくさんお時間をいただいたのに、本当に、すみません」






 結局、戻ってきたのはいつも通りの日常だった。出来上がったエコたわしは家の棚の奥底へしまって、かぎ針編みも元通りの場所に片付けた。やっぱり、駄目だったんだ。そう思うと会社のキーボードを指で叩く速度もいつも以上に速くなる。数字の羅列を打ち込むのは嫌いじゃない。無心になることができる――何も、考えなくてもいいから。


 考えないように、と何度も頭の中で繰り返して木曜日が過ぎ、金曜日がやってくる。

 二葉はいつも人よりも早く会社に着くのだが、今日はさらに早かった。電車の中で揺られて、【自由時間】の看板を見ないようにと足早に歩いていたからかもしれない。扉を開けて、誰もいない室内を確認して、はあ、と息を吐き出す。すると、次にやってきたのは背が高い男性だった。ユウである。


「なんや? まだあんただけか」

「え……ああ、総務部は営業部の方より、みんな出社が遅いので……」

「そうか。せやったら、もっとゆっくり来てもよかったなぁ」


 ユウはぽりぽりと頭を引っ掻いている。営業部のある四階から、今いる二階まで引っ越してきたユウだが、なんだかんだと荷物が残っているという理由で四階に行くことが多く、朝からの出社は今日が初めてということになる。


 返事はしたものの水曜日のことを思い出して、気まずくなった。もう来ない、と二葉がサチに伝えると、彼女は少し寂しそうにしていたが、『もちろん、お客様のお気持ちが一番ですから』と二葉の言葉を受け止め、帰るときまで丁寧な接客をしてくれた。綺麗なお辞儀の仕草が今も瞼の裏に残っている。


 ほんの少しだけの関わりだ。これ以上、胸に留めても仕方がない。ぺこりとユウに会釈をして朝の準備に取り掛かろうとすると、「なあ」と声をかけられた。


「昼に時間、あらへんか。やっぱ外は寒いし、できたら他の場所がええんやけど」


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