第2話


「二葉って、いつもつまらなさそうにしてるな」


 と、会社の先輩に告げられた。先輩とは秋から付き合い、冬に別れた。三ヶ月ももたなかった。付き合っていた先輩は営業で、二葉は総務の仕事をしている。四階と二階で部署も仕事場も違うからすれ違ってしまったといえばそれまでだ。しかし彼氏、いや元彼となってしまった人から告げられた言葉は、二葉の中でどきりとするものだった。それこそ今までの人生で何度だって言われてきたものだ。


 さらに少し前から会社ではある施策が推し進められていた。その名も、『週一、ノー残業デー行うでー』誰がつけたネーミングなのかは知らない。もしかしたら社長なのかもしれないけど、そこは問題ではない。入社して二年目、もう少しで三年目の二葉は、毎日事務処理の多さに埋もれていて、定時退社なんて考えもしなかった。でも今は退社することを良しとされてしまうのだ。もちろん仕事が終わらずに帰ることのできない同僚もいるが、することもないのに残っても仕方がない。水曜日には定時に帰るように計画的に仕事を進めるようにと上司に言われてしまっている手前、どうしても真面目に従ってしまう。


 定時退社は午後五時。『行うでー』では、繁忙期を除く毎週水曜日と決まり、二葉は水曜日なる度に困りあぐねてしまっていた。


 早く帰れといきなり言われたところで一人暮らしの家には誰もいないし、行きたい場所があるわけではない。彼氏には前述の通り振られてしまい、悲しいことに友達がいるわけでもなく……。


『ねぇ二葉。よかったら今度、彼氏を連れてきなさいよ!』

「どうかなぁ。そういうの、ちょっとまだ早いんじゃないかな」


 スマホ越しの叔母の声を聞きながら、リビングに置かれた座椅子に座り込んだ。ちょっと硬くておしりが痛いが、叔母の家から引っ越す際に、なんでもいいからと急いで買ってしまったことに後悔している。でも買い替えようにも大きな荷物だし、中々覚悟がつかない。ダイニングテーブル以外に、テレビの前には折りたたみ式の小さな白いテーブルも置いていて、片手でスマホを持ちつつ、なんとなく手持ち無沙汰でぽんぽんと天板を叩いてしまう。


 二葉は十年前に父親を亡くした。記憶もないほどに幼いころに母とも死に別れているので、天涯孤独となってしまった二葉は中学二年生のときから叔母の家で育ち、父の妹である鳩美とその家族は、明るくて、いい人たちばかりだった。だからこうして社会人となり家を出た今となっても、心配して電話をかけてくれる。


「あの、うん。……えっと、その、あんまり、そういうの、好きじゃない人だから」

『そう? うーん、でもよかったら聞くだけ聞いてみてよ! 駄目なら諦めるから』


 鳩美は二葉が彼氏と別れたことを知らない。中高どころか大学でも色気の一つなく、男の影がなかった二葉を心配している。だからついうっかり付き合い始めに報告してしまったのだが、何をすることもなくさっさと別れてしまった、とはなんとも言いづらい。

 電話越しに泣き出すほどに喜んでいた鳩美の声を思い出すと、さらに言えない。


「い、今、ちょっと忙しいから、難しいんじゃないかなぁ」

『千葉と東京じゃ、近いようで遠いものねぇ。たしかに無理にとは言えないわ』


 と、話す鳩美の側では騒がしい声が聞こえた。『ちょっと静かにしてよ』と、話しているのは息子たち相手だろう。「うん、鳩美さんごめんなさい、それじゃあ、また」と、二葉は慌てて締めくくった。


『またね。でも忙しいのはわかるけど、たまには二葉だけでも帰ってきてね』


 変わった名前の叔母だが、実家というものがすでにない二葉にとっては十分すぎるほどにありがたい存在である。だからこそ、胸が痛む。ため息が漏れ出た。でもいくら口から息を吐き出したところで、ノー残業の日は変わらないし、彼氏だって戻ってこない。


 通話も終了してしまったというのに、硬い椅子に体育座りをしたまま黒い画面のスマホに目を落とすとなんとも情けない自分の顔が映っていた。髪の毛は肩より少し長くて、ちょっとタレ目で、何をするにもつまらなさそうだと人から言われる顔。


 二葉は、ぎゅっと目をつむった。そして思いついたのはいつも通勤中に目にする喫茶店のことだった。



【手芸喫茶、自由時間】 初めての方もお気軽においでください。

【営業時間】 月・水・金(平日のみ) 午後4時~午後9時まで

 事前のご予約がございましたら、時間外での貸し切りも可能です。



 茶色いレンガ造りの赤い切妻屋根のドアノブにいつも引っ掛けられている、桜が彩られたフレーム看板の存在がずっと気になっていた。


 時間が余っていることに罪悪感があるというのなら、行くことができないという理由があればいい、と思った。慣れない一人暮らしで土日は自分のことに手一杯になってしまうから、水曜以外は忙しいというのは嘘ではない。この、唐突にぽっかりと空いてしまった水曜日がいけないのだ――もちろんこんなことはただの言い訳にすぎないとわかっているけど。


 事前のご予約が、と書いているということは、普段はいきなり行っても問題ないということだろう。でも手芸と書いてあるのだから、何か道具も必要かもしれない。


「一応、持っていこうかな……」


 呟いて、使い方すらもわからない見慣れた道具を出勤鞄に詰め込んだ。そしてえいや、と飛び込んだというわけだ。




「私の名前は佳苗二葉です……」

 と、おずおずと自己紹介をしつつ、二葉はここまできた経緯を考えていたのだが、「んもう、ちょっとサチさん!」とアッキーと呼ばれた青年が唐突にサチの肩を叩いた。叩いた、といいつつも小柄なサチの身体は揺れていないから、大きな青年の手とは相反して彼女を気遣っているのがわかる。


「ちゃんと説明しなきゃ。そりゃいきなりお名前を、なんて言われたら普通はこう答えるわよ」

「あらあらまあまあ」

「笑ってごまかしてるわあ」


 アッキーの言葉にサチは微笑み、美智代が呆れて肩をすくめている。サチはこの店の店主と言ったが、桜模様の刺繍がされたエプロンをしているサチとは異なりアッキーも美智代も普段着のままだ。店員には見えないからお客なのだろうが、口ぶりから察するに気安い仲なのだろう。というか、自分は何か間違えてしまったのだろうか。どんどんと不安が募ってやっぱり来なければよかったかも、と胸の内が重たくなってくる。


 覚悟を決めて店に入ったはいいものの、ランプのほんのりとした輝きや、天井からつるつると吊るされた名前のわからない植物や花のガーランド、ぴかぴかしたモザイクガラスの窓を見て、二葉はすっかり尻込みしてしまったのだが、すぐさま店主であるサチに察知されて案内され、今は大きな円卓型の丸テーブルに座らされている現状である。喫茶店、ということだが、店の中にはこの大きなテーブルが一つで、あとは奥に厨房があるらしい。


「ごめんなさいねぇ」とサチはほっそりとした指を頬に当てて「ここでいう名前っていうのは、本名のことじゃなくていいんですよ。どう呼んだらいいですかと尋ねただけのつもりでしたの」


「つまり、あだ名……ということですか?」

「そうそう。あたしは、アッキーで、こっちのおばちゃんは美智代」

「ふふふ。よろしくね」


 美智代はふくよかな指をちょきちょきさせている。はあ、と二葉は曖昧に頷いた。


「さすがにねぇ、本名で呼び合うのは今のご時世色々あるからって旦那が言ってたんですよ。でも聞いちゃったわ。しくじりましたねぇ」

「いつのもことながらあんまり後悔してない口ぶりよね……」


 アッキーは口元を引きつらせている。けれどもすぐに二葉の困惑に気づいたらしく、「サチさん、ほら、説明」と店主の肩をつん、と優しく指先で小突いていた。


「あらそうですね。新しい人なんて久しぶりでしたから……この店、【自由時間】は喫茶店として来てくださってもいいですし、好きな人はなんでも自分がしたい手芸をすることができるお店なんですよ」


 少し待ってくださいね……と言ってサチが奥から持ってきた茶色いシックなデザインのA4サイズのメニュー表には料金も含めた店のシステムが書かれているらしい。二葉はぺこりと頭を下げて受け取り、じっくりと確認する。要約すると、600円で一杯のドリンクサービスと、午後九時までの間ならば好きな席に座って、文字通りなんでも自分が好きな手芸をしてもいい、ということが書かれている。二杯目も飲みたければ追加料金を支払えば問題ないようだ。


 材料、道具は基本的には持ち込み――そりゃそうだ、と二葉は頷く。だがよくよく読んでみると、月額千円を支払えば、端切れなど店にある材料や一部の道具を自由に使ってもよくなるらしい。それはちょっと、気前が良すぎてここまでくるとちょっと怪しい。


「ハンドメイドって、結構たくさんの材料を使うでしょう? あれを作りたいのに材料が足らない、逆にせっかく買ったのに使う目的がない……っていうのはよくあるから。利用者がいらないものを寄付して、逆に使いたい人が使うってこと」


 横から見ていた美智代が即座に細くしてくれた。なるほど。条件がわかってくると、ほっとする。


「あの、初心者でも来て大丈夫なんですか?」


 自由度は高いが、逆にそれが不安である。作りたいものも、目的も決まっている人ならともかく、二葉には少し敷居が高いように感じた。


「もちろんですとも。私がわかることでしたらお伝えできますし。ちなみに、何かされたいものは決まっているんですか?」

「決まっているというか、その」


 ようやく鞄を抱きしめていた手を緩めて、二葉は家から持ってきたものを恐るおそる机の上に載せた。サチとアッキー、美智代がにゅっと顔を覗かせたので、どきりとして肩をすくめた。


「ええっと……これは……何かしら」

「す、すみません、開けますね」


 布でできた格子柄の、平たい筆箱のような作りのそれは少し汚れていて、一見して年代を感じる。横についたファスナーを開き観音開きにぺたりと開くと、両端がかぎのように少し曲がった細い棒のようなものが五本、中のメッシュに引っかかりながら入っていた。

 これを、何と呼ぶのか。実は二葉もよく知らない。


「ああ、かぎ針。それも両針タイプですねぇ」

「ご存知ですか」


 今まで誰に聞くこともできなかったから、息を呑んだ。「ええ、この店にも馴染みのあるものです」とサチは頷いている。


「つまり、佳苗ちゃんは編み物をしたいってことねぇ」と、いつの間にか名字があだ名として決まってしまったらしい。アッキーが耳元につけたおおぶりなピアスのデコレーション部分をぴん、と指先で弾かせながら話す。すごい、と二葉は瞬いた。

 さすが手芸喫茶との名前だけある。


「私でも、これを使うことができるんでしょうか……」


 ぽそりと口から出た言葉の意味は、おそらくサチ達は違うように受け取ったのだろう。「できるに決まっております」と、サチは丸メガネの中の瞳を優しげに細めた。その途端ほっとして、机の上に載せられていたコーヒーの匂いがふわりと二葉の鼻孔をくすぐった。


「あの、飲ませてもらっても大丈夫ですか?」

「ぜひ。温かいうちにお飲みくださいな。お砂糖はこちらに、ミルクが必要でしたらお使いくださいね」

「あっ、待ってください。先にお金を払います、入会します」


 六百円と月会費の千円、しめて千六百円を財布から出すと、「たしかに預かりました」とサチは近くに置いていたカルトンの中にお金を入れ、「少しお待ちくださいね」と言って店の奥に消えていく。レジに向かったのかもしれない。


 ひゅうひゅうと冷たい冬の風に撫でられた頬はまだまだ温まりきってはいない。淡く青い色をしたマグカップに手を添えると、ほんのりと温かかった。ほう、と息を吐き出し、まずは何も入れずに口に含むと、すうっと通り抜けるような香りが口いっぱいに広がる。


 あっ、と気づいた。多分これは、美味しい。コーヒーをあまり飲み慣れていない二葉でもわかるほどに、すっきりとした味わいだ。

 ならばと覚悟を決めて、シュガートングで砂糖入れの中から砂糖を二つつまみ、ぽとりと入れる。砂糖の形も二葉が知っている白い真四角のものではなくて茶色く、ところどころか不規則な形をしていた。コーヒーの中で砂糖が溶けて、ぷくぷくと息をしている。どきどきしながらティースプーンでかき混ぜる。もう一度飲むとさらに美味しく、ミルクを入れるとこれまた柔らかく味わいが変わる。全部を平等に味わいたいくらいだ。


「いいでしょぉ、サチさんスペシャルブレンド。」

「言えば紅茶も出してくれるけどね。でも私も同じく、すっかり虜」


 アッキーも美智代も、中断していた作業を再開しながらちらりと二葉に目を向けた。手芸喫茶、というからには何らかのハンドメイドをしているのだろうが、一体なんのか二葉には見当がつかない。


「あの、みなさんよくいらっしゃるんですか……」


 こうして無難なことしか尋ねられないのは二葉の欠点だと自分自身わかっているが、盛り上がる会話というものがついぞわからない。本当は、みんなの会話をじっと聞いている方が好きだが、今日くらいは頑張ってみようと思った。もしくは、少し気持ちが舞い上がっている、ということもあるかもしれなかった。


「そうねぇ。あたしは水曜日は毎週来て、他は色々かな。美智代さんは、どれもときどきって感じ?」

「ここで作れるものと、作れないものがあるからね。家に夫と、大きいけど子供もいるし」


 と、まで美智代が言いかけたとき、かららん、と二葉の背中向こうでドアベルが音を鳴らした。外の寒い風がひゅるりと店内に入り込んだが、ぱたりと閉じるとじわじわと元通りの暖かさになっていく。


「あらユウくんじゃない、いらっしゃい。うっそ、雪が降ってた?」


 アッキーが明るい声を出して片手を上げた。二葉も振り向くと、大きなマフラーをした黒髪で背が高い青年が、頭についた雪をマットの上で片手で振り落としていた。


「ん」と、ユウという青年は短く返事をして顔を上げた。ぴたりと二葉と視線が合う。青年の頬にはほくろが一つついている。何かの違和感を得たが、同時にユウは二葉を見て眉間の皺を深くした。どきりとして慌てて手元のコップに視線を移動させた。

 多分、睨まれた。怖くなって、指が震えた。


「それで、佳苗ちゃん。編み物でどんなものを編みたいとかあるの?」


 アッキーは気にせず二葉と会話をつなげようとしたが、二葉としてはどうしても背後が気になってしまう。


「いえあの、その、まだ、あまり考えてなくて……」


 我ながら情けなくなる言葉を吐き出し、どんどん声も小さくなる。

 その間にユウという青年はダウンジャケットを脱ぎ店内のハンガーにかけて、二葉の隣の席に座った。近い、と悲鳴を上げたくなってしまったが、仕方ない。店内にある机は木でできた大きなものが一つ。なら全員がそこに円陣のように座るしかない。ある座席は六つで、アッキー、美智代が間をあけて座っているから、結局どこに座っても誰かの隣になるしかなかった。そして入り口から一番近い席に座っているのは二葉だ。


 どうしてもちらちらと隣を気にしつつ、けれど当たり障りのない会話をしたくて、いつの間にか空っぽになってしまったコーヒーのカップの底に目を落とした。


「あの、このコーヒー、本当にすっごく美味しいですよね。私、家でコーヒーを飲むことってあんまりなくって、あっても目を覚ましたいとき急いで飲んじゃうだけなんで、えっと、その、私、時間の使い方がとても下手で、今日も他にも色々事情があるんですけど、時間を持て余しちゃってここに来たっていうか」


 一気に吐き出した後でひやりと背筋が寒くなる。こんなこと、誰も興味がないだろうに。 

 もう口をつぐみたい。静かにしたい、とどくんどくんと大きくなる心臓の音に顔を引きつらせる。


 アッキーはぺたりと頬に手を当てながら、「そうだったの。毎日きっと忙しくて大変なのね」と二葉に寄り添うようにしみじみと返答してくれた。でも、すぐ近くでは違う声も聞こえた。「なんやそれ」かすれたような低い声で、隣に座る黒髪の青年が呟く。


「もったいな」






 いつの間にか、二葉は店を飛び出していた。


 コートは着ている。鞄も持っている。「すみません、やっぱり私帰ります、本当にごめんなさい!」とアッキーと美智代に声をかけて、ユウという男性にも頭を下げた。ドアを開けて外に出ると、身体の芯が冷えるほどに寒くて、慌ててコートの襟を立てた。けれど、とにかく耳が熱かった。


 夕暮れだったはずの空はいつの間にか薄暗くなってしまった。ヒールで走って、でもやっぱり苦しくなって歩いて、出来もしない手芸をしたいと飛び込んだ自分が馬鹿らしかった。


(あんまり聞かない発音だったな……。もったいなって、もったいないってことだよね。コーヒーをもったいない飲み方をしてるって言いたかったのかな)


 その通りだと思って否定ができない。だからこそ恥ずかしい。飲み方もわからないのに、なんでこんなところに来たのかと訊かれているかのような気分だった。もちろん、こんなの二葉の被害妄想だということはわかっているけれど。


 アパートの自室に飛び込んだときに、『かぎ針』を忘れたことに気がついた。何度も鞄の底をひっくり返したが、見慣れた格子模様のケースは見つかることなく、ただ二葉の胸に暗い影を落とした。

 思わずこぼれそうになった涙を、手の甲で拭う。


(あれ、かぎ針っていうんだなぁ……)


 調べようと思えば、きっと調べることができた。でも勇気がなかった。編み物をする道具ということは知っていても、使い方はわからない。

 喫茶店に忘れてしまった手芸道具。


 それは、二葉の父の形見だった。

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