地獄の沙汰(10)

 翌日、篁の屋敷を訪ねてきた者がいた。

 裳付もつけ衣を身に着け、頭に鹿の角が着いた杖を持った僧であった。


「どちら様ですかな」


 家人が対応しようとすると、その僧は「昨晩のこと」と言えばわかるといった。

 そのため、篁はその僧と会うことにした。


「拙僧は隠海おんかいと申します」


 そう名乗り、隠海は深々と頭を下げた。


「昨晩のことと申されたと家人から聞いておりますが」

「左様でございます。単刀直入に申し上げますと、あの置物を返していただきたいのです」

「置物?」


 篁はわかっていながらとぼけて見せた。

 置物というのは、狗神が残したあの土で出来た犬の置物のことだろう。


「犬の形をした置物を篁様が拾ったという話を聞きました」

「ああ。あれのことか」

「はい。是非とも返していただきたいのです」

「あれは、お主が作ったものなのか」

「いえ。拙僧が作ったものではございません。あれだ代々我が寺に伝わる……」

「戯言もそのくらいにしておけっ!」


 篁は隠海のことを怒鳴りつけた。

 びくりと震えた隠海は驚いた顔をしていたが、黄色く濁ったその眼は篁のことをじっと睨みつけていた。


「お主の正体は、お見通しだ」

「何を言われます、篁様」

「狗頭の羅刹よ。お主の茶番に付き合うほど、この小野篁は暇では無いのだ」


 そう言うと篁は懐から取り出した小柄こづかを隠海の影へと投げつけた。


「あなや」


 隠海はそう叫ぶと、その場で卒倒した。


「恨めしいな、恨めしいな、篁」


 そう言ったのは、隠海の影の方だった。

 影の形が見る見るうちに、狗頭の羅刹へと変わっていく。

 狗頭の羅刹は昨晩の恨みを晴らすべく、隠海という僧侶の身体を乗っ取り、性懲りもなく再び篁のもとへとやってきたのだ。


「お主を斬ったのは、閻魔大王より授かりし鬼切無銘という名の太刀。そして、いまお主に投げつけたのは、その鬼切無銘の小柄よ。観念いたせ」

「おのれ、篁……」


 そうは言うものの、狗頭の羅刹の動きは小柄によって封じられてしまっている。


「これ以上抵抗するのであれば、もう一度太刀でお主を斬ることも考えなくはないぞ」

「わかった。わかったよ、勘弁してくれ」

「最初から、そう素直になれば良いものを」


 篁はそう言うと、懐からラジョウの角を取り出した。


「ラジョウよ、すまぬが狗頭の羅刹を地獄へ送り返してくれ」

「心得た」


 そう篁に答えたのは、篁の影だった。

 篁の影の中に潜んでいたラジョウは、すっと隠海の影に近づくとそのまま同化していった。


 ※


 その日の夜、篁の屋敷の縁側には一匹の蛍が飛んでいた。

 篁は柱に背を預けて、盃を傾けている。


「篁様、ありがとうございました。お陰で地獄門へ行かずに済みました」


 どこからか女の声が聞こえてきた。その声は、あの女房のものだった。

 どうやら閻魔は篁との約束をきちんと守ったようだ。


「礼には及ばぬ」


 篁は呟くようにいうと、静かに酒を飲んだ。

 夜空には糸のように細い二日月が姿を見せていた。

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