地獄の沙汰(6)
牛飼童が失神したという場所は、とある公卿の屋敷のすぐ脇であった。
ここで狗神の鳴き声を聞いた。
試しに篁は耳を澄ませてみたが、聞こえるのはどこかの屋敷から聞こえてくる龍笛の稽古をする音だけだった。
本当に狗神はいるのだろうか。そもそも地獄から逃亡した獄卒が狗神などという名を自ら名乗ったりするものなのだろうか。
様々な疑問が篁の頭の中に浮かび上がっては消えていった。
そんなことを考えながら歩いていると、急に気分が悪くなってきた。
なんだ、どうしたんだ。
篁は自分でもわからなくなり、近くにあった屋敷の塀に手をついて、その場に佇んだ。
呼吸が浅い。それは自分でもわかった。
何が起きている。まさか、狗神の
「どうかなされたか」
よほどの顔をしていたのか、通りすがりの者が心配して声を掛けて来た。
「いえ、なんでもございませぬ」
「どこぞの調子が悪いのか」
「いえ、そのようなことは……」
そう言いつつも、篁の顔色はすぐれなくなっていく一方だった。
おや、これは何かがおかしいぞ。
額からは冷や汗がだらだらと流れ出てくる。
「篁殿、しっかりなされよ」
その男は篁を脇から抱えるようにして、すぐ近くにあった自分の屋敷へと篁のことを運んだ。
「ご気分はいかがですかな」
「多少、楽になりました。ありがとうございます」
男の屋敷で日陰に入り、水を一杯貰ったことで、篁の冷や汗は止まった。
この屋敷は何かに守られている。そんな感じがした。
結界なのだろうか。それともこの家についている守り神のようなものの力なのだろうか。
この屋敷の
「有統殿、本当に助かりました」
篁は有統に礼を述べ、立ち上がろうとした。
「兄様、御客人でございますか」
そこへひとりの女性が姿を現した。
篁はその女性に見覚えがあり、思わず声を出してしまった。
「あっ、そなたは……」
見間違うはずがなかった。以前、夜中の見回りの際に牛車が壊れたところを助けた、あの姫であった。篁は姫を助けた後、何度か文のやり取りなどをしていたが、どこぞの姫であるかまでは知らないままであった。
「なんじゃ、ふたりは知り合いか」
「以前、篁様には牛車が壊れたところを助けていただきました」
どこか恥ずかしそうに姫は顔をうつむかせて言い、
「そうか。
「いえ」
そうか、姫は藤原三守様の乙姫であったか。
篁は姫の正体を知り、驚愕していた。
「もうしばらく、休まれていかれよ」
なにか事情を察したかのような顔をした有統は、篁にそういうと乙姫をその場に残して自分へ奥の部屋へと入っていってしまった。
「お久しゅうございます」
「何度か、文をいただきましたな」
「はい、篁様からも……」
姫は夜中に出会った時のように好奇心旺盛といった感じではなく、どこか慎ましい雰囲気を身にまとっていた。
「普段はこちらのお屋敷におられるのか」
「いえ、普段は父の屋敷におります」
「左様でしたか。では、あの晩も三守様のお屋敷に」
「ええ」
あの晩の姫のことを思うと、いま御簾の向こう側にいる姫はどこか借りてきた猫のように思えてならなかった。
しかし、このような姫もまた美しいとも篁は密かに思ったりもしていた。
「また、
「え……あ、はい」
平安時代に文を送るというのは、現代でいうところのラブレターを送るようなものであった。文には、手紙のような内容以外にも、和歌なども書いていたらしい。特に和歌は、その人への想いなどを書き綴り、自分の気持を伝えていたという。
小野篁は、和歌の世界においても有名であり、百人一首には参議篁の名で歌を詠んでいる。ただし、篁が百人一首で詠んだ歌は流刑の際に詠んだ歌であり、悲しい気持ちの歌だったりしている。
また、古今和歌集にも篁の歌は載っており、
『花の色は 雪にまじりて 見えずとも かをだににほへ 人のしるべく』
という名歌を残している。
この『花の色は』から始まる歌は、面白いことに篁の孫(子という説もあり)である小野小町も同じように『花の色は』から始まる歌を残していたりするから興味深い。
有統が戻ってくると、篁は立ち上がり挨拶をした。
「すっかり世話になってしまいました。この御礼はいずれ」
篁は有統に頭を下げ、有統の屋敷を後にした。
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