鬼切の太刀(2)

 六道辻は地獄の入口。それは平安京が出来た頃から、噂になっていたことだった。

 弾正だんじょう少忠しょうちゅうである篁の耳にも、その噂は入ってきていたが、まさか噂が本当の話であるとは思いもよらぬことだった。もちろん、そのことを誰かに話したところで信じてはもらえないだろう。

 誰が寺の隅にある古井戸から地獄へ行くことができると思うだろうか。


 夜中の六道辻に人影はなかった。地獄の入口と噂される場所に好んでやってくるものはいない。

 寺の本堂の裏手にある井戸はどこか禍々しい雰囲気を醸し出していた。


「ささ、篁様」

「うむ」


 井戸の中を覗き込んだ篁は、花にせかされるようにして井戸のふちを囲んでいる井桁いげたに足を掛けた。

 そこにあるのは闇だけだった。一度は通ったことがあるものの、本当にここが閻魔のいる冥府や地獄へと通じているのかという疑念もある。


「篁様」


 躊躇している篁に花が再び声を掛ける。


 こうなったら、どうにでもなれ。

 篁は両足を井戸の中に入れると、そのまま井戸の穴の中へと落下していった。

 体内の臓物がすべて持ち上げられたような感覚に襲われる。

 しかし、それは一瞬のことであり、すぐに地へと足がついた。


 遠くに見える蒼い炎。

 巨大な門。

 そして、門を守るようにして立っている牛頭馬頭ごずめず


 間違いなく、ここは冥府であり、地獄の入口であった。


「久しいの、篁殿。噂は色々と聞いておるぞ」


 篁が門の前まで行くと、馬頭が話しかけてきた。


「噂?」

「獄卒だけじゃなく、羅刹ともやりあったそうじゃないか」

「ああ、その話か」

「羅刹は俺の兄弟分でね。篁殿が人間離れした強さだったと褒めておったぞ」

「そうなのか」

「是非とも、わしもお前と一度手合わせをしてみたいものだ」


 そう言いながら馬頭は胸の筋肉をピクピクと動かして見せた。


「こら、馬頭。篁様はあんたとおしゃべりをしにきたわけじゃないのよ。邪魔しないで」


 花が馬頭にいう。


「ちょっとぐらい話をしてもいいじゃないか」

「それを閻魔様にも言える?」

「わかったよ。わかった。ほら、さっさと通れ」


 そう言って、牛頭馬頭は篁が通れるようにふたりで門扉を押し開けた。


 閻魔大王は大きな机に向かって、筆を執っていた。

 どうやら地獄の大王様というのも多忙なようだ。


「閻魔様、小野篁様をお連れしました」


 先ほど馬頭と話していた時とは打って変わって、礼儀正しい口調で花が声を掛ける。


「おお、待っておったぞ。花、篁を奥の間に通せ」

「わかりました」


 篁は花に連れられるようにして、閻魔大王の執務室の脇を通って別室へと案内された。


「しばし、こちらでお待ちください」


 花はそういうと篁を部屋に残して去っていった。


 その部屋には卓と倚子いしが置かれており、卓の上には様々な料理が並べられていた。

 倚子とは、現代でいうところの椅子いすのようなものであるが、宮中では高官のみが座ることの許されたものであり、また高官の身分によって形などが違っていた。

 初めて見る倚子の形であった。おそらく、閻魔大王特製のものなのだろう。

 そんなことを思いながら篁が倚子を眺めていると、閻魔大王が入ってきた。

 閻魔大王の姿は、先ほどまでの赤ら顔で髭を蓄えた偉丈夫姿ではなく、若い人間の男の姿になっていた。


「呼び出しておきながら、待たせてすまない」


 そう言って閻魔大王は、倚子に腰をおろすと、その向かいの倚子に篁も座るように促した。

 倚子になど座るのは初めてのことだった。

 しかし、どこか心地よい。宮中で座っている公卿たちはこんな感じなのか。篁はそんなことを思いながら倚子に座っていた。


「獅子頭の羅刹とやったそうだな」


 閻魔は酒を篁の盃に注ぎながらいう。


「ああ。結局は勝てずにラジョウを出したが」

「ラジョウ?」

「ええと、獄卒のことだ。羅城門の鬼だから、ラジョウ。そう名付けた」

「なるほど、ラジョウか。いい名だ」


 笑いながら閻魔は盃の酒を飲む。

 篁もそれにつられるように笑い、酒を飲んだ。


「そういえば、その腰に佩いた太刀はどうした。以前の物とは違うな」

「これか。これは安物だ。なまくらだと思うが、無いよりはマシだと思ってな」

「前の太刀は良いものだった。そうなんだな」

「まあ、悪くはなかった。しかし、羅刹を突き通すことはできなかった」

「鬼を斬ることなど、現世の太刀では無理だ」

「それは今回、よくわかったよ。まったく歯が立たん」


 そんな話を閻魔と篁がしていると、女童子が料理を運んで来た。

 その料理は焼かれた肉であった。

 しかし、その肉は篁にとって見たことのないものだった。


「これは?」

「気になるか、篁。喰って見ろ。美味いぞ」


 肉は外側の色が変わるほどしっかりと焼けており、中はまだ赤さが残っているが火はしっかりと通っているようだった。

 その肉を箸で摘まみ、口の中へ放り込む。

 肉には液体状のたれが掛かっていた。初めて食べる味であったが、ひしおを基本としているようで、肉を噛めば噛むほど良い味が出て、口の中に旨味が広がった。


「これは何の肉だ」

「気になるか。これは牛じゃ」

「牛だと」

「ああ。牛は食ったことがないだろう、篁」

「当たり前だ。牛、馬、犬、猿、鶏の肉は食べてはならんと決められておる」

「まあ、そうじゃな。しかし、それは現世の話。ここは冥府じゃ、気にするな」


 閻魔はそう言って笑うと、自分も牛肉を口の中に頬張った。

 確かにこの肉は美味かった。しかし、自分がいま牛を食べているのだという背徳感もある。

 そんな篁の気持ちを見透かしたかのように、閻魔は篁の盃に酒を注いだ。


 その日は、閻魔と酒を飲み交わし、腹いっぱいになるまで料理でもてなされた。

 なぜ閻魔は自分のことを呼び出したのだろうか。ただ酒を一緒に飲みたかっただけなのだろうか。篁はそんな疑問を覚えたが、次第に気にするのをやめていった。

 旨い酒に、旨い料理。それを振舞ってくれる。

 そのことに感謝する。いまはそれだけで良い。


 宴のあと、篁は口から蒼き炎を吐く冥府の牛車で地獄の出口まで見送られた。

 冥府の入口は六道辻の井戸であるが、出口はまた違う場所に通じていた。

 そこは桂川に近い、福正寺の井戸であった。

 福正寺は平安京を挟んで六道珍皇寺とは反対側に位置しているといえる場所にある。

 六道珍皇寺は平安京の東側を流れる鴨川に近く、福正寺は平安京の西側を流れる桂川に近い場所だった。

 福正寺の古井戸から姿を現した篁は、何事もなかったかのように福正寺を出ると自分の屋敷に戻るために平安京を横断していった。

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