第26話 どうぞよろしくお願いします

周囲からは反対されたが佐和の気持ちは固かった。二月までにしっかり勤め上げて引き継ぎも終えた。

そして三月になり、有給休暇を消化しながら転職先を探した。


天文業界は決して規模の大きなものではないので、もともと求人もあまり無い。佐和が学んできたものを活かすのであれば、転職先を探すのは決して難しいことではない。しかし彼女が求めているのは今までとはまったく違う環境だ。


三月下旬になってようやく仕事が見つかった。日本海に面したとある地方都市の科学館。女性スタッフが夫の転勤で退職することになり、急遽募集することになったらしい。

電話問い合わせの後に履歴書を送付し、そして面接を受けるためにこの街を訪れた。


『はいはい、戸塚です。あぁ富永さん、もう着いちゃった?申し訳ない。実は車がガス欠でさ。さっきJAFに電話して、もうすぐ到着するみたいだから。もう少し待っててくれ』


館長の戸塚から『迎えに行くので駅に着いたら連絡するように』と言われていたのだ。思いがけず時間ができてしまったので佐和は少し歩いてみることにした。改札を出ると大きな通路が広がっている。右に行くと北口で左に行くと南口だ。南口には繁華街や商業施設があり、改札を出る人の流れは九割以上がそちらに向かっている。佐和は興味本位で北口がある右へと歩いていく。突き当たりのエスカレーターで下に降り、駅名の下に北口と書かれた大きな看板をくぐると広場に出た。

広場と言ってもテニスコート一面ほどの大きさだ。道の向こうにコンビニが一軒あり、その周りには相当前に造られたであろう雑居ビルが年季の入った姿を見せている。そしてその奥には怪しげな看板の風俗店とホテル街が広がっていた。

佐和は「ふむ」と一言呟くと、くるりと振り返りエスカレーターへと向かった。


通路に戻り南口へと歩いていると柱の陰に意外なものを発見した。


「これってもしかして駅ピアノってやつ?」


初めて見る光景に少しばかりテンションが上がる。

黒いアップライトピアノが壁際に置かれていた。改札から歩いてくるとちょうど柱の陰に隠れてしまう場所にあるため先程はまったく気が付かなかったのだろう。

佐和は興味津々に歩み寄ると、人差し指でそーっと白鍵を押した。

予想した音が彼女の耳に届く。


「ちゃんと鳴るんだ。……じゃあ弾いちゃおっかなぁ」


椅子に腰掛け、両の手首と指をコキコキと動かす。

「コホン」と咳払いをひとつし、背筋をスッと伸ばすと鍵盤に指を置いた。「すぅ」と小さく息を吸うと指たちが流れるように動き出し、優しくて力強いピアノの音色がコンコースに溢れていった。



「いやーそれにしても富永さんみたいなバリバリの研究者さんが来てくれるなんてビックリですよ」


館長の戸塚が横を歩く佐和に顔を向けた。ニッコリ笑うと口角がグッと上がり、それとは逆に目尻のシワがにゅっと垂れる。白いものが目立つ髪と合わせていかにも好々爺といった風情だ。面接は十分程で終わり、結果は合格。彼女のキャリアになんの問題もなく、その人柄を確認するためだけに費やされた。


「こちらです。さぁ、どうぞ」


戸塚は取っ手を掴むと手前に引いた。重そうな厚い扉がゆっくりとスーッと開くと同時に少しひんやりとした空気を頬に感じた。

案内されたのはプラネタリウム。直径12メートルのドームの真ん中にレンズがたくさんついた二つの球体を備えた投影機が鎮座している。最近のプラネタリウム投影機はコンパクトになったものだが、この科学館のは昔ながらのものでレトロ感さえ漂ってくる。


「私と一緒で随分と年寄りの投影機だが、どうか可愛がってあげてください」

「はい、もちろんです」


館長の言葉に笑顔で答えると、佐和は一歩前に出て投影機に語りかける。


「初めまして。富永佐和です。どうぞよろしくお願いします」


深くお辞儀をした。

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