月下逃走 4 *

 山中の崖。


 方向転換に成功した状態で、ティリオンの肩に乗り木の枝にもつかまっているレジナに、次のティリオンの指示がくる。


「よし、いいぞ。あとは登るだけだ。


 下から肩で押してやるから、枝を伝って落ち着いて登るんだ。


 大丈夫だ、きみならできる。はじめろ!」


「はいっ」


 助かるという明るい希望が見え、今度は返事の声も出て、レジナは枝を伝って登りはじめた。


 下から崖をよじ登るティリオンが押してくれるので、驚くほどどんどん登れた。


 やがて手が崖の淵に届いてかかり、両手をついて上半身をせり上げる。


 ところがその時。


「こっちだ、こっちのほうで女の悲鳴がしたぞ!」


「人が通ったあとがある。近いぞ、よく捜せ!」


 木々をかき分け、荒々しく草を踏みしだく複数人の足音。


 近づいてくる、たいまつの明かり。


 崖から落ちかけたときのレジナの甲高い悲鳴や叫びは、山中の夜のしじまによく通り、それを聞いて追っ手が戻ってきてしまったのだ。


 レジナの全身から力が抜けた。


 せっかくせり上げた上半身が、ずるずるとずり落ちていく。


 こらえようと思っても、追っ手に対する恐怖のあまり、悲鳴が喉からほとばしり出ていた。


「きゃあああああっ! いやっ、いやあ――っ、きゃああああ――っ!」


「レジナっ、落ちついて! まず登るんだ。登るのが先だから……


 あっあ、うあぁぁ――っ!!」


 必死で支え、押し上げるティリオンだったが、ずり落ちてくるレジナの重みが脱臼した右肩にまともにかかり、あまりの激痛に彼も悲鳴を上げていた。


 みるみる近づく男たちの声。


「おっ、いたぞっ。あそこだ!」


「あそこから降りて逃げるつもりだ。みんな急げっ」


 もちろん、レジナとティリオンは必死に崖を登っていたわけだが、レジナが恐怖でずり落ちかけていたこともあり、追っ手には崖を降りて逃げようとしているふうに見えたのだ。


 狩りで獲物を追い詰めたときのような、興奮して浮かれた追っ手の声が上がる。


「ウホホ――ッ! 絶世美女の踊り子ちゃんは、俺が捕まえるんだからな、邪魔するなよっ」


「キェェ――ッ! それはずるいぞ、ぬけがけだぁ」


「ヒャッハ――ッ! 俺は赤毛ちゃんでもいいよっ。踊り子ちゃんでもどっちでもいいよっ。カモ――ン♡」


 崖淵から男たちの手が何本も伸びてきて、悲鳴を上げ続けるレジナの、腕や、肩や、服をがっちりとつかんだ。


「ふひひひっ、捕まえたっ。もう逃げられないよーん」


「デヘヘッ、せっかくの酒を飲み損ねて追っかけたぶんも、俺たちと仲良くしてよーん」


「さあさあ、大人しくしないと狼さんが食べちゃうぞー。ガウガウッ、なんちゃって」


「こらっ、おまえら、あんまりふざけて女たちを怖がらせるな!


 パシオン隊長は、ふたりとも丁重に扱え、と言ってただろうがっ」


 レジナが男たちに引っ張り上げられる前に、ふたり分の体重を受け続けたティリオンの足掛かりが、とうとう崩れてしまった。


 つかまれていたレジナは男たちの手に……陽気で楽しい連中だが、おふざけが過ぎるところがある『なんちゃって部隊』の兵士たちの手に残った。


 だが踊り子ティリオンは、崖下の闇の中に吸い込まれるように、落ちていった。



――――――――――――――――*



人物と部隊紹介


● レジナ(16歳)……テバイポリスの奴隷村に住む、赤毛の少女。

 ティリオンに一目惚れをして、危険を冒してかくまっている。

 自分の母が、デルポイのアポロン神の巫女みこ だと知って、大きな誇りと活力を持った。


● ティリオン(19歳)……アテナイの将軍長アテナイ・ストラデゴスの息子。優秀な医師でもある美貌の青年。複雑な過去を持っている。


 スパルタ王女アフロディア姫と恋に落ち、『レウクトラの戦い』でスパルタが敗戦したため、姫を連れて逃げていた。


● 『なんちゃって部隊』……パシオンを隊長とする、コリントス軍第101いちまるいち小隊の別名。

 ペイレネの麾下にある。


 元々は、ぐうたらでちゃらんぽらんでへそ曲がりばかりの、やる気のない兵ばかりを寄せ集めた落ちこぼれ部隊で、コリントスでは皆に馬鹿にされて『なんちゃって部隊』と呼ばれていた。


 しかし、スパルタからコリントスに帰国したペイレネに見いだされ、その独特の能力を引き出され活用されて、特殊工作部隊として優秀な戦果をあげるようになった。

 今では誇りをもって『なんちゃって部隊』と名乗っている。


 陽気で楽しい連中だが、なんちゃって、の名のとおり、冗談やおふざけが過ぎるところがある。

 自分たちを認めてくれて、率いてくれるペイレネに心酔している。

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