月下逃走 3

 背後から自分の名を呼ぶティリオンの声が聞こえたが、レジナは振り返らなかったし、立ち止まりもしなかった。


 木々の枝が、ぴしぴし音を立てて全身を打ち、肌を鋭く引っかく。


 しかし体の痛みは感じなかった。


 心だけが、痛みに泣き叫んでいた。


 (あんたが好きなの、あんたが好きなの!


 すごく好きなの、ティリオン!


 でもあんたには、もう他に好きな人がいるんだね。


 あたし、本当は知ってた。気づいてた。


 あんたが家来けらいだから、お姫さまを助けようとしてるんじゃないってこと。


 心の底ではわかってた。


 あんたが、あのお姫さまを好きなんだってこと。


 でも、あきらめきれなくて、あきらめきれなくて……


 今でもあきらめきれないほど、あたし、あんたが大好きなんだ!)


 涙が後から後からあふれて、視界をなくしていた。


 ふいに足元の地面がなくなり、レジナを凄まじい墜落感ついらくかんが襲った。


 キャァァ――――ッ!! と大きく悲鳴をあげ、本能的に両手と両足を振り回す。


 手に当たったものを必死でつかんだ。


 がくん、と落下は止まった。


 崖の淵に生えて垂れていた木の枝を両手でつかんで、レジナは崖からぶら下がっていた。


 つかんでいる枝は細いがしなやかで強く、レジナの重みくらいでは、千切れたり折れたりはしなさそうだ。


 ただ、樹皮はなめらかで、気を抜くとすぐに手が滑る。


 崖に背を向けてぶら下がってしまっているので、崖の壁に足掛かりを求めることもできない。


 こわごわ下を見たが、下の方は夜の闇に消えていて、どれくらい高い崖なのかもわからなかった。


 レジナは固く目を閉じ、叫んだ。


「助けて――っ、助けて――っ、ティリオン!」


「レジナっ!」


 すぐに声がして、樹木をかき分ける音と足音がやってきた。


 真上を向いて目を開けると、木の枝の間から、月の光を後光のようにして崖の淵からのぞきこんでいるティリオンの、強張こわばった顔が見えた。


 崖の淵からのぞきこんだティリオンは、腹ばいになって手をのばしたくらいでは届かない位置にレジナがぶら下がっているのを見て取った。


 自分の着ていたシーツを素早く脱ぎ、足と左手と口を使って、キリキリとねじって両端を結び目でとじてロープにした。


 本当は、ロープを木の幹にくくりつけて、レジナを引っ張りあげたいところだったが、シーツのロープはそれができるほど長くはない。


 次善の策として、ロープの片端を自分の左腕に二回ほどきつく巻きつけ、腹ばいになってレジナのぶら下がっている木の幹に足をからませ、崖の淵から身を乗り出すようにして、ロープのもう片方の端を垂らした。


「レジナ、シーツで作ったロープが見えるか?


 それにつかまるんだ、引っ張り上げてやるから!」


 レジナは、横におりてきた白いシーツのロープをみつけた。


 手の届きそうな位置にあるそのロープを、枝から片手を離してつかもうとした。


 けれどロープをつかむ前に、枝をにぎっている片手が、ずるり、と滑り、体が下がった。


 きゃあぁぁっ!! と悲鳴をあげて、あわてて両手で枝をつかみなおす。


 そして涙声で訴えた。


「だめ、枝がつるつるで、滑るの。


 片手、離せない。体が下がって、もうそれ、遠くてつかめない。


 落ちる、落ちる、苦しい、だめ……」


 やむなくティリオンは立ち上がり、シーツのロープを腕からほどいた。


 レジナよりも少し横の崖を、足掛かり手がかりをさぐりながら降り始めた。


 か細いレジナの声。


「ティリオン、もうだめ、手が痛い……


 あたし、あたし、落ちる……怖い」


「必ず助けてやる、頑張るんだ!」


「でも、でも、あ、 滑る、だめ……ほんとに落ちる……もうだめ。


 落ちたら死んじゃう……もうだめ、怖い」


「もうちょっとだ、辛抱しろ!」


 赤毛の少女を叱咤しったしながら、月下の崖を、右腕の使えない不自由な体で、慎重に、かつ、急いで降りる。


 レジナがもう完全に限界だと思った頃、つまさきに、ティリオンの裸の肩らしいものが当たるのを感じた。


 急いでそれに足の裏をあてると、わずかに押し上げられ、痺れていた手の負担が軽くなる。


 脱臼している肩の痛みに耐えながら、歯をくいしばって発せられるティリオンの指示。


「いいか、まず私の肩を使って、崖の方を向くよう体の向きを変えるんだ。


 ゆっくりでいい、やれ!」


 震えながら、無言で頷くレジナ。


 ティリオンの肩を足場に、枝をつかみながら少しずつ体を回し、なんとか崖の方を向くことに成功した。

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