月下逃走 2

 馬をおとりに走らせたティリオンは、左手でレジナを強く抱き寄せた。


 自分の体で生い茂る木々の枝の先端からかばいながら、道脇の茂みを奥へ奥へと突き進んだ。


 すぐに、集団の馬のひづめの音が聞こえてきた。


 木々の枝の間から、たいまつの明かりがちらちらと近づいてくるのが見える。


 ティリオンはレジナを地に伏せさせ、自らもその隣に腹ばいになった。


 どっどっどっどっどっどっ……


 地鳴りのような音がみるみる高まってくる。


 伏せるレジナは、それが馬のひづめの音なのか、自分の心臓の音なのか分からなくなっていた。


 今更ながらに、真っ黒い恐怖がこみ上げてきて激しい震えがきた。


 追われ、命を狙われる。


 ぎらぎらした剣を持った情け容赦ない男たちが、自分の首をはねに来る!


 涙があふれ、こらえきれぬ嗚咽おえつがもれた。


 兄を呼んで泣いていた姫ぎみの姿が、頭をよぎった。


 敵に追われる姫ぎみの気持ちが、こんな時に理解できてしまった。


 ティリオンの引き締まった左腕が、すすり泣くレジナの頭をかかえた。


 長い指が、優しくなだめるように髪を撫でる。


 (ティリオン、たすけて!)


 発作的ほっさてきにレジナは、横に伏せるティリオンに思いきりしがみついていった。


 気が遠くなるほどの恐怖から、唯一、自分を守ってくれる存在にひたすらすがりついたのだ。


 そのまま、とほうもない時間が過ぎたように思えた。


 また逆に、ほんのまたたきする間であったようにも感じられた。


 頭のすぐそばで、ティリオンの声。


「なんとか、うまくいった。追っ手は行ってくれたようだ」


 レジナは自分を取り戻した。


 レジナはいつの間にか、仰向あおむいたティリオンの上に覆いかぶさって抱きついていた。


 満月の明かりのもと、すぐ目の前に、大好きなティリオンの顔がある。


 月の光は、彼の優しげに整った顔を、いっそう幻想的に美しく見せていた。


 乱れたさまさえ魅力的な銀髪が、美麗な顔をふちどって、夢幻のようにきらめいている。


 エメラルド色の瞳が深いうれいをたたえて、レジナを見ていた。


「すまない……こんなことになってしまって」


 ティリオンの長い指が、レジナの涙の跡にそっと触れた。


「きみには、あやまるだけではもう到底、済まされないだろう。


 でも今の私には、きみが与えてくれた恩恵と払ってくれた犠牲に対する、十分なつぐないをすることさえできない。


 すまない。許してほしい」


 レジナは激しく首を振った。


 おさえ込んでいた想いが、一気にあふれだした。


つぐなってもらおうなんて、思ってない!


 そんなんじゃない、 そんなんじゃないんだよ!


 あたしは、あたしは……


 あたしはただ、あんたのことが!」


 後は言葉にならなかった。


 レジナは夢中で、ティリオンの唇に自分の唇を重ねていた。


 驚きで、大きく見開かれるティリオンの目。


 わずかにって固まる体。


 動く左手が、とっさにレジナの腕をつかむ。


 ふたりのくちづけは、月の女神ディアナだけが見守り人だった。


 行動で熱い恋心を打ち明けたのち、そのままレジナは、ティリオンの胸に耳をあてた。


 心の返事を聞くように耳をすませると、とくとくと脈打つ確かな鼓動。


 それは、レジナのせつない想いに優しく頷いてくれているように聞こえた。


 銀色の月の光に包まれた、ふたりだけのひととき。


 言葉のない、言葉のいらない、ロマンティックな静けさ。

 

 けれどもやがて、小さな声で途切れ途切れに、ティリオンが語りはじめた彼の気持ちは、レジナの甘い夢を無残に打ち砕いた。


「あの、レジナ……その……何と……言えばいいのか。


 迷惑ばかりかける……こんな私に……好意をもってくれて、ありがとう。


 ……でも…… すまない。


 私は……私には……心に決めた、大切な女性がいて……」


 この状況での突然の告白に、困惑し、相手を傷つけまいとして言葉を選び、それでも誠実に話そうとする苦しげな彼の口調は、どんな拒絶よりも雄弁だった。


 レジナにはその先を聞く必要はなく、また、聞くにたえなかった。


 がばと起き上がると、残酷な現実から逃げるように、やみくもに無我夢中で走りだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る