第十六章 月下逃走

月下逃走 1

 馬は平地を抜け、夜の山道にさしかかろうとしていた。


 レジナは最初、家へ向かって馬を走らせようとして、すぐティリオンに手綱を奪われた。


「だめだ、レジナ!


 追っ手がかかるもしれない。追っ手に、姫とソリムのいる家の場所を知られるわけにはいかない。


 まず追っ手が来ないか確かめる。来たら、よそへ引っ張っていって、どこかでまかねば」


 ティリオンは左手一本で手綱を握り、レジナの家とは別方向になる、山に向かって馬を走らせたのだった。


 この夜はほぼ満月。


 こうこうと照らす月明かりの中、馬はティリオンのあやつる手綱で風を切って走る。


 ティリオンの前に乗るレジナは、風圧で押され、後ろのティリオンの胸にしっかりと抱かれるように押しつけられることになった。


 彼女はこういう事態であるにもかかわらず、好きな人の胸の中で、大きな幸福感がわき上がってくるのを感じた。


 ティリオンの方は、倒れていたアルヴィを心配しつつも、アルヴィがあの場にいたことで強い危機感をいだいていた。


 (アルヴィは大丈夫だろうか。


 血は流れていなかったから、隻腕の熊男くまおとこに斬られてはいない。


 おそらく気絶していただけだとは思うが……


 アルヴィがあそこにいた、ということは、オレステス将軍がアテナイ軍総司令官としてレウクトラに来ているのか?


 それとも、まさか、フレイウスがアテナイ軍総司令官だというのか?!


 フレイウスはまだ26歳だ。将軍位につける年齢ではない。


 だが考えてみれば、将軍位でなくても総司令官にはなれる。


 この規模の戦ではあまり考えられないことだが、可能といえば可能だ。


 父上の生死によっては、氏族組織や軍の人事配置に大きな変化があっても、おかしくはない。


 私の知っているアテナイの内部情報は、もはやあてにできないほど全く違ってしまっているのかもしれない。


 ともかく、アルヴィに姿を見られた以上、総司令官が誰であっても捜索され、追っ手がかかる。


 もしオレステスやフレイウスがここに来ているのなら、見つかるのは時間の問題だと考えた方がいい。


 姫さまを連れて、早急にこの地を離れなければ。


 レジナも私を助け出したことで、テバイ兵たちに顔を見られている。


 このままテバイの村に置いてはおくのは危険だ。


 安全な土地まで、姉弟きょうだいともに一緒に連れて行ったほうがいいだろう。


 申し訳ないことになってしまった)


 後方をうかがった緑の目が、曲がりくねった山道の下のほうに動くたいまつの明かりをとらえる。


 (追っ手がきた!


 アルヴィから報告を受けたアテナイの追っ手か。


 私が隻腕の熊男くまおとこを殺したせいでのテバイの追っ手か。


 あるいは両方か。


 どちらにせよ早くまいて、急いで姫さまのもとに戻らなければ。


 そしてできれば、コリントス・ポリス方面に向かおう。


 ペイレネという人と連絡を取りたい)


 この時の追っ手こそ、ペイレネ麾下きかであるパシオンに命じられた『なんちゃって部隊』だったのだが、当然ながらティリオンには、まさかそんなこととは予想の範囲外である。


 山の中腹に達すると、ティリオンはレジナと共に馬を下りた。


 鼻息荒い馬の首を撫で、自分も大きな息をしながら、説得するように馬に語りかける。


「いい子だ。


 我々はここで下りるが、おまえはもう少し頑張ってこの道をずっと走っていっておくれ。


 この山を越えるまで止まるんじゃないぞ。


 わかるな? この道を走っていくんだ。


 うん、うん、そうか、わかったんだな、よぉし頭のいい子だ。


 そらっ、いけっ!」


 励ますように尻を叩かれたのを合図に、馬は細い山道をまっしぐらに駆け登っていく。


 ティリオンはレジナの手を引いて、道脇の茂みへ分け入った。


 レジナはその時初めて、ティリオンの右腕の様子がおかしいのに気づいた。


 ティリオンの右腕は力なくだらりと垂れ、動く気配がない。


「ティリオンっ、あんたその手?!」


「大丈夫だ、心配するな」


「でも、でもっ」


「肩の骨をはずされた……というより、熊男くまおとこに折られる寸前で、はずれるような角度に仕向けたんだ。


 折られるより、マシだったからな。


 ただの脱臼だ。これは後ではめる。


 さ、早くこっちへ! 木の枝で、目を刺さないよう気をつけろ」

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