ひとつの出発 5 *

 ソリムを産み、産後の肥立ちが悪くて死んだ母親を、当時6歳だったレジナはおぼろげにしか憶えていない。


 一年前に亡くなった、片言かたことしかギリシャ語の話せない元スキタイ人傭兵ようへいの父親も、娘レジナに、自分の過去も母の過去もほとんど語ることはなかった。


 神託の都。聖なるデルポイ、と呼ばれているデルポイ・ポリス。


 予言の神アポロンの神殿を有し「大地のへそ(世界の中心)」とも呼ばれたこの都市国家は、神託しんたくを受ける、という特殊な機能を持つゆえに、ギリシャ都市国家群の中でも特別な高い地位にあった。


 デルポイの雄大な自然の中、巨大な神殿での神秘的なセレモニー。


 神殿の地下に作られた聖域の入り口には、ギリシャ賢人の格言が刻まれ、知的な雰囲気と聖なる気配が漂っている。


 ピューティアと呼ばれる神託しんたくの巫女は、この聖域に入り、岩の裂け目をまたぐように置かれた高い三脚のかなえを椅子代わりにし、「浄められたもの」を意味するホシオイという男たちの手伝いを受けながら座る。


 神託しんたくを求める者が、プロフェーテスという案内人に聖域に案内され、小さな板に書かれたうかがいの内容がプロフェーテスにより口頭で、神託しんたくの巫女に伝えられる。


 巫女は、岩の裂け目から漏れ出る蒸気を吸って、月桂樹の葉を噛みながら神託しんたくを下す。


 トランス状態になり、時には狂ったようにに頭や体を振りながら発せられる、巫女の予言や暗示的な言葉。


 1980年代の地質学研究で、どうやら神託しんたくの巫女たちは、岩の裂け目から出るメタンガスを吸い込み、酸素欠乏症になっていたのではないか、とされている。


 酸素欠乏症になって、夢とうつつさかいで神の声を聞いた、と巫女本人も信じているので、狂気的な様子の妄想のようなお告げであっても、その言葉は確信に満ち、説得力にあふれていた。


 ここで忘れてはならないのは、当時における神託しんたくというものが、いかに重要な意味を持っていたか、ということだ。


 将軍たちは戦略について神託しんたくにうかがいをたて、遠征隊が出発する前には神託しんたくに導きを求めた。市民は健康問題や投資について尋ねた。


 デルポイで下された神託しんたくによって、都市国家群の政治判断も大きく動き、いくさを起こす起こさないも、神託しんたくによって決定される場合もあったのだ。


 デルポイはある意味、国家の運命を託されるほどの場所だった。


 レジナは、母の紫の巫女服みこふくを抱きしめた。


 おぼろな母の面影をのがすまいとするように。


「あたしの母ちゃんが、デルポイの巫女。


 アポロン神さまの神託しんたくを受ける巫女。


 すごい、すごいよ母ちゃん。


 あたしの母ちゃんは、すごく偉い人だったんだ!


 そしてあたしは、すごく偉い人の娘なんだね!」


 レジナがら数歩離れてティリオンは、複雑な表情で、感動して喜ぶ少女を見つめていた。


 実は、ティリオンの実家のアルクメオン家は、デルポイのアポロン神殿とはかなり深い関わりがあった。


 過去、紀元前548年に神殿が火災で焼失したとき、新たに建設されたアポロン神殿の費用は、アテナイ貴族アルクメオン家の財力によるところが大きかった。


 そのため、このアポロン神殿は、アルクメオン神殿とも呼ばれたくらいである。


 紀元前373年に、大地震によりまた神殿が破壊されてしまったが。紀元前371年の今、神殿が徐々に再建されているのにも、アルクメオン家は力を貸していた。


 アテナイ・ストラデゴス子息として高度な特殊教育を受けたティリオン・アルクメオンにとって、アポロン神殿の神託しんたくを受ける巫女、という意味は、レジナと同様に大きくはあった。


 けれどもその内容は、かなり違うものを持っていた。



――――――――――――――――*



 【※スキタイ人とは、前8世紀頃から前3世紀頃にかけ、黒海北岸からカスピ海北岸のヴォルガ川までの草原地帯で活動した、遊牧騎馬民族です。


  高い騎馬技術と金属器文化を持っていました。


  黒海沿岸のギリシャ植民都市と交易があり、傭兵としても活躍しました】


 【※アテナイ・ストラデゴスとは、アテナイの将軍長、という意味の、役職名です】


人物紹介


● レジナ(16歳)……テバイポリスの奴隷村に住む、赤毛の少女。

 ティリオンに一目惚れをして、危険を冒してかくまっている。

 自分の母が、デルポイのアポロン神の巫女みこ だと知って、大きな誇りと活力を持った。


● ソリム(10歳)……レジナの弟。気が弱くおとなしいが、頭はいい。


● ティリオン(19歳)……アテナイの将軍長アテナイ・ストラデゴスの息子。優秀な医師でもある美貌の青年。複雑な過去を持っている。


 スパルタ王女アフロディア姫と恋に落ち、『レウクトラの戦い』でスパルタが敗戦したため、姫を連れて逃げている。

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