まぼろし 6
アフロディアをしっかりと抱いて、ティリオンが言う。
「アデア……アデア、かわいらしい呼び名です。とても素敵だ。
でも私にとって、アデアはやはり姫さまです。
スパルタの王女でなくとも、私の大切な姫ぎみですから。
だからふたりきりのときは、時には、姫、と呼ばせてください」
「わかった」
「私は重罪人で、本来は許されぬこの身で生きながらえました。
それは、大切な姫さまを守りたかったからです。
私は、姫さまがおられなくては、もう生きてはゆけません。
私のすべてを姫さまに捧げます。
誰よりも姫さまを愛し、姫さまを守るために戦い、姫さまのために生きていきます」
「ありがとう、ティリオン。
私も約束する、誓う!
誰よりもおまえを愛し、おまえを守り、おまえのために戦うと。
おまえのために私は生きる。
ふたりで誰も知らない、遠い所へ行こう」
「はい、参りましょう」
お互いしか頼るもののない、若すぎるふたり。
祖国や身分や血縁者、近臣や友など、他のすべてを失ったふたり。
少なくともそう思い込んだために、お互いを隔てていたしがらみから解放されたふたりは、ただ純粋に愛し合う男女となって、熱い口づけをかわし、抱き合ったままゆるやかに寝台に倒れこんだ。
◆◆◆
台所で水を飲もうとして、台所の横のかつての子供部屋の前で、たまたまティリオンとアフロディアの話を聞いてしまったソリムは、震えていた。
(スパルタのお姫さまだって?!)
がくがくする足で居間にもどり、青い顔で両手をテーブルにつく。
(やっぱりあのふたり、ただのスパルタ兵なんかじゃなかった。 どうもおかしいと思ってたんだ。
テバイの敵のスパルタのお姫さまなんか
すぐ村長の所へ行って、知らせなくちゃ)
残暑厳しい昼のことで、風を入れるため開け放してある表口から外へ出ようとしたソリム。
けれどもその足は、戸のそばに置いてある小さな
包帯の巻いてある自分の右腕を、目の前に上げて見る。
ティリオンの手当ては
そして振り向いたソリムの視線は、食卓と作業机を兼用している居間の大きなテーブルの上の、数枚の薄い板の上をさまよう。
板には文字や、数字が彫ってある。
ソリムがそういう事柄に強い興味を持っているのを知ったティリオンが、彫って、読み書きや計算を教えてくれている教材だった。
うーっ、とうめいて、ソリムは頭をかかえた。
(僕がスパルタのお姫さまのことを喋れば、ティリオンも捕まって殺されてしまう。
そんなのはいやだ!
ティリオンは本物の兄ちゃんみたいに親切にしてくれる、いい人だ。
でも、スパルタのお姫さまなんか
あああああっ、どうすればいいんだよっ)
困ってしまって、ソリムは部屋中をうろうろぐるぐると歩き回った。
(どうしよう、どうしよう、どうすればいいんだ?
だいたい姉ちゃんがいけないんだ。
姉ちゃんがあのふたりを家に入れたりするから、僕までこんなに困ることになっちゃったんだ。
ああ、でも、でも……可哀相な姉ちゃん。
姉ちゃんはティリオンのことが好きなんだ。
だから助けてあげたのに、世話してあげてるのに、ティリオンはあのお姫さまが好きなんだよね。
姉ちゃん、失恋決定じゃないか。
このことを知ったら、すごく悲しがるだろうな。
あんなに
姉ちゃんを悲しがらせる奴の事なんか、やっぱり村長に喋ってしまおうか)
ソリムはぶるぶると首を振った。
(やだ、だめだ。
そんなこと僕には出来ない。
僕のせいでティリオンが死ぬなんて……あの金色のお姫さまだって死ぬなんて、いやだよ!
よし、ここは何もかも全部、姉ちゃんに話そう。
姉ちゃんは傷つくかもしんないけど……しょうがないよね。
それからふたりで、どうするか相談して決めよう。
姉ちゃん洗濯に行くって言ってたから、いつもの川まで行ってみよう)
さんざん悩みまくったあげく、ついにそう決心して、ソリムはもう一度家の外へ出ようとした。
ところが、戸口で大きなものにぶつかって、どん! 家の中にはじき返され、どしん! と尻餅をついた。
「あいたたっ!」
お尻に手をあて、顔をしかめるソリム。
その目の前に、
ごわごわした黒髪、ざらざらの無精ひげ。
いかにも荒事が好きそうな、
毛むくじゃらの太い右手は、
テバイのダリウスだった。
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