まぼろし 5

 あたたかく柔らかい少女の胸にいだかれて、乙女になつく美しい一角獣のように、ティリオンは安らいでまぶたを閉じ、しかし悲しげなため息をついた。


「確かに、つらくはありました。


 でも私は重罪人ですから、そんな生活におちいっても仕方がない。


 特に今となっては……自分が犯してしまった罪の、真実ほんとうの意味に気づいた今となっては、もっともっとつらい思いをしてもよかったとさえ思っています。


 つらい思いをすることが、父に対する罪のつぐないになる、というわけではないですが」


「ティリオン……」


「姫さまが私についてきてくださる、と、ずっと一緒にいたい、と言ってくださることはとても嬉しい。


 でも姫さまに、罪人である私と同じ逃亡生活をさせて、それでいいものかどうかわからないのです。


 それが姫さまにとって一番幸せな道かどうか、私にはわからないのです。


 姫さまには、私が経験したようなつらい思いをさせたくない。


 誰よりも、幸せにしてさしあげたいのに」


 アフロディアの右手が、胸の中のティリオンの銀の髪をそっと撫でる。


「大丈夫だ、おまえとなら、どんな生活だってきっと耐えてみせる。


 スパルタ人は質実剛健があるべき姿だし、得意なんだぞ。


 それに私は、おまえと一緒にいられれば幸せなのだ、ティリオン。


 だから私を幸せにしたいなら、おまえの行くところへ一緒に連れて行ってくれればそれでいいんだ。


 おまえはいつも考えすぎだ。


 私があまり考えない分、色々と思案をしてくれているのだろうが、あまり悪いふうにクヨクヨと思いわずらうな。


 ふたりでいればなんとかなる、大丈夫だ」


 さっきまで力づけ励まそうとしていた王女に、逆に励まされる形になってしまったものの、ティリオンの口元には小さな笑みが浮かぶ。


 (よかった。これは以前の姫さまだ。


 最初に出会ったときも、川から助け上げた私のほうが、あとで逆に心配されるみたいになったんだったっけ。


 前向きで、温かさ、光、希望、そういった恵みを自然と身につけているかた。


 私のいとしい太陽の姫ぎみ)


 ティリオンは柔らかい胸から顔を上げ、姫の琥珀こはくの目を真剣にのぞき込んだ。


 最愛の少女の体にまわした腕に、少し力がこもる


「それならば……


 すべてを捨て、ふたりだけで生きようと考えるなら、ギリシャを離れてできるだけ遠くへいかなくてはなりません。


 言葉の違う国、気候の違う国、人々の肌の色の違う国なども越えて、私たちのことを誰も知らない土地まで。


 そしておそらく、故郷ギリシャには二度と戻ってはこれない」


「おまえと一緒ならどこへでも行くとも! ティリオン」


 無鉄砲むてっぽうさと紙一重かみひとえ一途いちずさを持つスパルタ少女の答えには、ためらいなどない。


 考え深く慎重なアテナイ青年も、この返事を聞き、ついに決意して頷いた。


「わかりました。


 それでは、姫さまのお望みのままに」


 するとアフロディアが、こう言い出した。


「ではティリオン、私は王女をやめたのだから、これからは、姫、と呼ばれるのはおかしい。


 逃げている最中に、その呼び方を人に聞かれるのもまずいだろう。


 そうだな、アデア、とでも呼んでくれ。


 小さかった頃は、兄上さまにそう呼ばれていたんだ」


「そうなんですか……。 では……アデア姫」


「こら、最後に姫をつけてはいかんではないか」


「あ、すみません」


「アデア、と呼び捨てでいいのだ、ほら」


「王族の姫さまを呼び捨てにするのは、気が引けて……」


「だーかーらー。


 私は王女も王族もやめたんだ。もう姫ではない、と言っておろうが。


 私は……私はおまえの……」


 アフロディアの顔が、真っ赤になる。


 小さな声。


「私はおまえの……妻に……なるのだろう?


 そしてティリオン、おまえは私の夫になる。


 私たちは結婚して、夫と妻として、一緒に旅に出るのだろう?


 妻になるのだったら、誰よりも親しく呼ばれたい」


 それを聞いて、ティリオンの顔も赤くなる。


「本当に私の、妻に……なってくださるのですか?」


「なる!」


「ありがとう、嬉しいです。……ア、アデア…」


「言いにくそうだな」


「まだ、慣れていませんから」


「では慣れろ。


 毎日、アデア、と百回ずつ呼べ。返事してやるから」


「ええっ、百回も?!  そうか……スパルタ式、ですね。


 それにしても、さすがに百回は多いかと……


 呼ぶほうも大変ですが、返事するほうも大変ですよ、姫さま」


「ほらまた、姫、っていった!」


「ああっ、しまった。癖になってしまっているんです」


 ふたりは笑い合い、そして同時に涙をにじませて、抱き合った。


 このいくさで失ったものが、人前で、姫、とは呼べなくなった事だけではないことをふたりはわかっていた。


 そして、そのあまりに大きい喪失から立ち直るためには、お互いの愛で支えあっていても、まだまだ時間が必要だった。

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