まぼろし 4

「しっ、姫。どうかお静かに」


 感情のたかぶりで声の大きくなるアフロディアに、口の前で人さし指を立てたティリオンが、あたりをはばかって注意する。


 (レジナさんは、川に洗濯に行くと出かけたが、ソリムくんのほうは今どこにいるか把握していない)


 けれども、スパルタ人らしい直情型ちょくじょうがたで、まだ精神的にも不安定なアフロディアは、そんなことには構わなかった。


 寝台の上にぺたんと座ってティリオンの方を向き、彼の美しい顔を両手ではさんだ。


 自分の顔に引き寄せて、心配そうに問いかける。


「ティリオン、おまえは、私がスパルタ王女でなくなっても約束してくれるか?


 私を守ってくれると。


 私のそばにずっといてくれると、誓ってくれるか?」


 ティリオンは微笑んで、少し元気をとりもどしてくれた恋人の体に、ゆるやかに両腕をまわした。


「はい、もちろん誓います。


 私は、この命をかけて姫さまを守ります。


 姫さまがお望みなら、ずっとおそばにいます」


 それから難しい表情になって、声を沈めた。


「ただ、スパルタにお帰りにならないとすると、遠くへ逃げなければならない……」


 簡単に王女をやめると言ってしまう、16歳になる前の、世間知らずの少女。


 アテナイから逃亡する前の、ティリオン自身も世間知らずだった。


 高貴の生まれ育ちゆえの、世間知らずの悲しさや危険。


 これまでの逃亡の旅で、いやというほどそれを思い知らされてきたティリオンは、少女にしっかり言って聞かせる必要を感じた。


「スパルタに帰る道を選ばず、ふたりでどこかへ旅立つ道を選べば、いつ終わるとも知れない逃亡生活をすることになります。


 私自身の追っ手からもですが、姫さまを追ってくる者たちからも、逃げ続けなければならなくなります。


 なぜなら、姫さまは王女をやめたつもりでも、まわりはそうは思ってくれないからです。


 たくさんの人間が色々な思惑おもわくを持って、姫さまをどこまでも追ってくるでしょう。


 そして逃亡生活というのは、非常につらく厳しいものなのです。


 姫さまがこれまで、王宮でたくさんの家臣にかしずかれて、安全に豊かに暮らしてこられた世界とは、全くかけ離れた世界です」


 過去を思い出す目になって、ティリオンが続ける。


「常に追っ手を警戒しながら、逃げ続ける旅。


 金はなく、追っ手に発見されるおそれがあるため、安定した仕事にもつけず、あちこち彷徨さまよう日々。


 もちろん、親切な人たちもたくさんいる。


 助けてくれたりかくまってくれたりした、優しい人達。


 でも、素性すじょうがばれたり、追っ手に発見されたりすれば、その人たちに大変な迷惑をかけたまま、恩をあだで返すような形で去っていかねばならない。


 途方にくれてぼんやりしていると、ごろつきやならず者にからまれる。


 悪人に目をつけられ、犯罪に利用されたりもする。


 奴隷商人に騙されて、売り飛ばされそうになったこともある。


 それらから逃げ出すことによって、さらに追っ手が増えてしまう破目はめになる。


 人とかかわるのに懲りて、山奥にひっそり隠れ住んでも、そこも追っ手に嗅ぎつけられれば、せっかくつくり上げたささやかな生活の全てを捨て、落胆らくたんしながらまたもや逃走しなければならない。


 追い詰められ、昼夜の区別なく次々と居場所を変える。


 草を食べ木の皮をかじり、雨水を飲み、風雨にさらされる野宿が続くと、だんだん体が弱っていく。


 体が弱ると心も弱る。


 緊張の連続で過敏かびんになり、なんでもない物影ものかげや物音におびえ、不安と恐怖で気が狂いそうになる。


 とうとう病気にかかり高熱を発していても、追っ手は容赦ようしゃなく迫ってくる。


 ふらふらになりながら死に物狂いで逃げる。


 そういう悲惨な日常に、耐えていかねばならないのです」


 逃亡生活の厳しさを世間知らずの姫ぎみに教え、よく考えさせようとしたティリオン。


 だが話すことによって、これまでのつらい経験がありありと思い浮かび、自分のほうが苦しくなってしまってうつむいた。


 そういう経験をしていないアフロディアのほうが、つらそうにうつむくティリオンの頭を、自分の胸に優しく抱え込んだ。


「ティリオン、ティリオン……


 そうか……可哀想に、とてもつらかったのだろうな。


 可哀想に……いろんな悲しいことがたくさんたくさん、あったのだろうな……」

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