まぼろし 3 *
ティリオンが手を握り返してやると、アフロディアは語りはじめた。
「夢……夢を……
夢を見ていたんだ。
白い
けど、分かれ道で兄上さまは立ち止まられて。
私に、何か大事なことを言っておられたようなのだが……
……思い出せない。
何を言っておられたのだろう。
最後に、微笑んでらしたのは覚えているのだが」
アフロディアの声が、一段と悲しげになる。
「それから、兄上さまの姿がまぼろしのように消えてしまって、ひとりぼっちになってしまったんだ。
泣いていたら、急に足が滑って。
下を見たら、スパルタのみんなが、死んでいた。
地面がスパルタのみんなの死体で、一杯なんだ。
怖くなって走ったら、転んでしまって。
倒れた私の体の下には、クラディウスが……いたんだ。
最後に見た、
大きな傷口が開いてて、血まみれで、冷たくて、もう動かない……」
大粒の涙があふれ、横たわるスパルタ王女の顔を濡らす。
「みんな……みんな死んでしまった。
なのに私は、ひとりだけ生きている。
ひとりぼっちになってしまった。
いっそ私も、スパルタのみんなと一緒に死んでしまえばよかった」
ティリオンは、アフロディアの首筋を拭いていた布で、今度は彼女の涙を拭いた。
「姫さま、どうかそんなことをおっしゃらないでださい。
姫さまはひとりぼっちではありません。
ここに私がいます。私のことを忘れないでください。
それに、他にも生き残って、隠れているか、逃げ延びたスパルタ兵がいるかもしれない。
そういうお味方と合流できる可能性もあります。
だから希望を捨てないで、お気を確かに持ってください」
ティリオンの言葉にも、アフロディアの涙はぽろぽろとこぼれて止まらない。
ティリオンのひたむきな介抱と投薬によって、2日前に意識が戻ったスパルタ王女アフロディア。
けれども、起きている間は兄王や、クラディウスや、スパルタの
そんな彼女を何とか
「姫さま、外にはまだ捜索の兵がいますが、捜索の
少しずつですが、このあたりは手薄になってきています。
もっと捜索の兵が減り
スパルタに帰れば、姫さまは女王さま。
新しい道も開けます。
どうか、あきらめないで下さい」
アフロディアは驚いた。
立派な兄王のいた彼女は、自分が女王になるなど、今まで考えてもみなかったからだ。
「スパルタに帰れば、私が女王?」
思わず知らず、涙が止まる。
視線を落として眉根を寄せ、彼女は、みずからの心の声を聞くように首をかしげた。
「この私が、スパルタの女王?」
しばらくして、改めてティリオンを見て、アフロディアは小さく首を振った。
「いや、私は女王になどなりたくない。
スパルタに帰りたい、とも、もう思ってはいない。
兄上さまもクラディウスも、親しい近臣たちの誰もいなくなった今、スパルタに私の帰れる場所はない。
居場所はない。
スパルタに帰っても、仕方ない」
「姫さま……」
「私は、私は……スパルタに帰って女王なんかになるよりも、ティリオン、おまえとずっと一緒にいたい。
おまえの行くところへついて行きたいんだ。
前からそう思っていた。
私がスパルタ王女などでなければ、何の
いっそ王女などやめてしまいたい、と。
そうだ!」
上掛けの下の手をほどいて、やにわに身を起こすと、アフロディアは意識が戻ってから初めて嬉しそうな顔になった。
「そうだ、今こそ私は王女をやめられるぞ!
うん、スパルタ王女などもうやめた!
私はおまえについて行く。
ひとりの女として、王女などではない、ただの女として!」
――――――――――――――――*
人物紹介
● ティリオン(19歳)……かつて、自分の父親の
命をとりとめた父親とアテナイ側の意志で事件はもみ消されているが、本人は知らない。
スパルタ王女アフロディア姫と恋に落ち、『レウクトラの戦い』でスパルタが敗戦したため、姫を連れて逃げている。
【※アテナイ・ストラデゴスとは、アテナイの将軍長、という意味の、役職名です】
● アフロディア姫(15歳)……ふたつの王家のあるスパルタ王国の、アギス王家の王女。ティリオンの恋人。
『レウクトラの戦い』で、スパルタは敗戦。逃亡中。
本来は、元気なじゃじゃ馬姫なのだが、兄王クレオンブロトスや、幼馴染クラディウスや、多くのスパルタ兵の戦死によって大きなショックを受けている。
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