まぼろし 2

「あにうえっ、あにうえっ、どこ、どこ、どこ、どこっ?!」


 消えてしまった兄の、体の一かけらでも取り戻そうとするように、アフロディアの両手が滅茶苦茶めちゃくちゃに振り回されて、むなしく空をつかむ。


「いやだ、いやだっ、どこにいったの、兄上っ!


 いやだ、私を置いていかないで!


 ずっと一緒にいる、と言われたではありませんか。


 私をひとりにしないで、あにうえ──────っ!!」


 涙があふれ出し、アフロディアは両手で顔をおおった。


 兄王という、大きな、あまりに大きな存在を失い、気が遠くなるほどの心細さと恐ろしさに襲われる。


「兄上、お願い、戻って来て下さい。私をひとりにしないで……


 兄上、あにうえ、うーっ、うっうっうっ……」


 けれど、いくら泣いて呼んでも、応えはない。


 もうすぐ16歳になる、哀れな少女の泣き声が悲しく響くばかりだ。


 と、顔をおおって泣いていたアフロディアの足が、急にぬるっ、と滑って動いた。


「?!」


 手をどけて足元を見ると、いつの間にか地面が、細長いごろごろとした柔らかいものに覆われていた。


 それらの表面は、ねっとりとした赤い液体で濡れている。


 目を見開いたアフロディアは、それらの正体にすぐ気づいて絶叫を放った。


「きゃああああああああっ!!!!」


 あたりの地面をみっしりと覆っているのは、人の体だった。


 血まみれの、スパルタ兵たちの無残な死体。


 傷口から内臓がはみ出ている者。

 手や足がない者。

 体が半分になっている者。

 矢が何本も突き刺さったままの者。

 体だけ、首だけの者。


 幼い頃からアフロディアの親しく知る顔が、幾つも幾つも、むごたらしい姿と成り果てて転がっている。


「いやああああああああっ!! きゃああああああああ!!」


 恐慌状態になって、走り出す。


 しかしすぐに、足が誰かの死体にひっかかって転んでしまった。


 転んだ彼女の体の下には、左手がなく、袈裟掛けさがけに断ち割られた傷口も生々しい死体……優しかった幼なじみ、クラディウスの死体が……




             ◆◆◆




「いやああああああああああああ─────っ!!!!」


 恐怖の悲鳴をあげて、アフロディアは大きく目を見開いた。


「姫っ、どうされました?!」


 すぐ近くで、のぞき込むティリオンの心配そうな顔。


 奴隷村の、粗末な寝台。


 その寝台の中で、アフロディアは冷や汗にまみれて横たわっていた。


 寝台の横の椅子に座って、彼女のほうに体を傾け、ティリオンが気づかわしげにこちらを見ている。


 恋人の秀麗な顔を、アフロディアは涙のにじんだ目で見つめかえした。


 ティリオンは横を向いて身をかがめ、足元の小桶こおけのきれいな水に麻布をひたした。


 固く絞ってから、アフロディアの顔の汗を優しく拭いてやる。


 上掛けの端から左手を入れ、恐怖で冷たくなっているアフロディアの小さな手首をそっと握った。


 アフロディアを安心させると同時に、医師として脈をはかるために。


 それから、柔らかく尋ねた。


「姫、どこか苦しいですか? 体に痛むところがありますか?」


「………」


 無言で、呆然と見つめるアフロディア。


 まだ悪夢からめきれていなかった。


 ティリオンは、麻布を持ったままの右手の甲をアフロディアの額にあて、発熱の有無を調べた。


「姫、大丈夫ですか? 私がわかりますか?」


「………」


「姫?」


「あ……ああ、ティリオン……大丈夫だ」


 何度か声をかけられて、やっと返事ができるくらいに目覚めてきたものの、今度は敗戦国の逃亡中の王女、という悲惨な現実に戻されたアフロディアは、力なく繰り返した。


「……大丈夫……だ……」


 熱は下がった、とて、今度は首筋の汗を拭いてやりながらティリオンが言う。


「泣き疲れて、うとうとされて眠られたあと、随分とうなされておられましたから心配しました。


 本当に、どこか苦しくないですか?」


「ああ……大丈夫だ。


 でも、とても体がだるくて……」


 アフロディアは目を閉じた。


 ところが、まぶたの裏の闇にさっきの悪夢の光景がちらついて、あわてて目を開く。


 上掛けの下で脈をとるティリオンの手を、彼女はすがるように握り返した。

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