第五章 まぼろし

まぼろし 1

 アフロディアは、夢を見ていた。


 柔らかな白い光があふれ、美しい花の咲き乱れる野。


 両側を花に囲まれた一本の道を、兄王クレオンブロトスと並んで歩いていた。


 白い簡素かんそな長衣をまとった、大柄な兄王。


 そのたくましい腕に半分ぶら下がるようにして、きゃっきゃと笑ってはしゃぎながら歩む、アフロディア。


 時折、花の野の中に、顔馴染かおなじみのスパルタ兵たちがいて、ふたりに笑いかけたり手を振ったりした。


 アフロディアも笑って、手を振り返した。


 横を見上げれは、兄王が優しく微笑んでくれる。


 強く賢いスパルタの黄金獅子きんじし。アフロディアの愛する兄、クレオンブロトス王。


 兄王のもとにあれば、アフロディアはいつも安全だった。


 兄王のそばにいれば、アフロディアは無邪気な子供のまま、思いっきり甘えて何不自由なく暮らすことができた。


 兄王の大きな愛に包まれ、温かい手でしっかりと保護されていることをアフロディアは全身で感じていた。


 彼女は安心しきって、楽しく弾む心で、一本の花咲く道を歩んだ。


 しかし、間もなく道は、二つに分かれた。


 ひとつはこれまで通りの、花に囲まれた道。


 もうひとつは、ごつごつした岩や地面がき出しの、荒れ地を通る道 。


 どちらの道も、先は乳白色にゅうはくしょくの霧に包まれ、たどり着くところを見通すことは出来ない。


 兄王は、分岐点で立ち止まった。


 アフロディアは兄王の手を引っ張り、これまで通りの花の道を行こうとした。


「兄上、こっちの道のほうが綺麗でよさそうだ。こっちへ行こう」


 だが、険しい顔になった兄王は動かない。


 彼は睨むように、ふたつの道の先を隠す乳白色にゅうはくしょくの霧を凝視ぎょうししていた。


 やがて兄王は、アフロディアと真正面から向き合う位置に動いて、妹の小さな両肩に大きな手をそれぞれ置いた。


 まっすぐに目を合わせて、語りかける兄王。


「アフロディア、我が愛しい妹よ。


 残念だが、私が共に行ってやれるのはここまでだ。


 ここから先は、おまえひとりで行かねばならぬ。


 おまえ自身が選んだ道を、ひとりで歩んで行かねばならぬ」


 アフロディアはびっくり仰天した。


「ええっ! 兄上、一体何を言っておられるのですか?


 私は、兄上を置いてひとりで行ったりなんかしません。


 兄上が行かないなら、私も行きません。


 私と兄上はいつも一緒です。


 兄妹きょうだいなんだし、ずっと一緒に決まっているではありませんか!」


 兄王は、柔らかく笑った。


「ずっと一緒、か……そうだな。


 その言葉は深い意味をもっているし、正しい。


 確かにおまえと私は、ずっと一緒だ。


 むしろ、これまで以上にな。


 私はいつもおまえの内に……ここに、いるのだからな」


 兄王は片手で、妹の胸を優しく、ぽん、と叩いた。


 妹から手をはなし、数歩、後ろに下がるクレオンブロトス王。


「では、別れは言うまい。


 アフロディア、おまえにとってもはや道は一つではない。


 だが、生粋きっすいのスパルタ人らしい野生の本能と、たくましい生命力を持っているおまえなら、どの道を選ぼうと力強く歩んでいけると信じている」


「兄上? 言っておられることがわかりません、兄上!」


 強い不安にかられ、アフロディアは兄王に駆け寄ってすがりつこうとした。


 ところが、彼女の両手は兄王の体を突き抜け、空をきった。


 愕然がくぜんとして、自分の両手を見るアフロディア。


 クレオンブロトス王の、王者の琥珀こはくの目が、妹姫を厳しく見つめる。


 穏やかだが決然とした、声。


「恐れるな。おまえの言葉通り、私は常におまえと共にある。


 自分の選んだ道にくじけることなく、進み、戦い、生きろ!


 これからはおまえが、スパルタの黄金獅子きんじしとなるのだ。


 妹よ、誰よりも強いスパルタ戦士であれ!」


 言い終えると、心残りを果たしたように、クレオンブロトス王はにっこり笑った。


 そしてその姿がゆらゆらと揺らめき、消え始めた。


 あわててもう一度のばしたアフロディアの手が、透けていく兄王の体を突き抜ける。


「あにうえ、あにうえ─────っ!」


 アフロディアの悲痛な叫び。


 輝くような笑みを浮かべたスパルタの黄金獅子きんじし、クレオンブロトス王の姿は、まぼろしのように消え去った。

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