川辺にて 5 *

 レジナは、心臓が口から飛び出すのではないかと思った。


「こ、これは……


 これは……弟が……そう! 弟が手斧で……怪我したんだ」


 男のあおい目が、わずかに細まる。


「手斧でか。


 怪我はひどいのか? 我が軍の軍医を行かせて、治療させようか?」


「いや、いらない、大丈夫。全然たいしたことないんだよ」


「遠慮をする必要はないぞ」


「いらないったら、いらない!


 ちょっとした怪我くらいで、大層たいそうなことをしないでおくれ」


 レジナはうつむいて屈み、持っていたティリオンの服を洗濯桶せんたくおけの他の洗濯物の上に置く、という動作で、動揺を隠した。


 洗濯桶せんたくおけをかばうように抱えて、立ち上がる。


 無表情になって見つめる男に、笑顔を作って向けた。


「じゃ、他にも仕事があるんで、あたしはもう帰らしてもらうよ」


「その洗濯桶せんたくおけの中の包帯はまだ、洗濯する前のようだったぞ。


 洗っていかなくていいのか?」


「うん……いいんだ……その……


 よく見たら、この包帯はだいぶほつれてきてたからさ。


 これはもう捨てて新しい布を切ってさ、巻いてやることにするよ。


 そいじゃ、失礼するね」


 男に背を向け、レジナは歩き出した。


 走っちゃだめ、怪しまれるから走っちゃだめ、絶対に走っちゃだめ、と心の中で自分に言いきかせ続けた。


「待て!」


 鋭い制止の声。


 びくっ、とレジナの体が固まる。


 (やっぱり、ばれちまったの?!)


 絶望的な気持ちで振り返ったレジナに、男は、洗濯板を差し出した。


「これを、忘れているぞ」



              ◆◆◆




 フレイウスは、木の影に隠れて待機していたギルフィの元へ戻った。


 後ろを警戒しながら遠ざかってゆく赤毛の少女を、あおの目で示して、命じる。


「やはりあの娘、かなり怪しい。


 だが確信はない。


 ティリオンさまによくなついていたイオの様子が変だったから、思いきってつっこんだ質問もしてみたが、確信が持てる、というまでには至らなかった。


 いくさのあと、我々を見てやたらおびえたり、かかわり合いを避けようとするのは、どの村人も同じだからな。


 疑いはあるが……確信もない以上、レウクトラから追い出される危険をおかすわけにはいかない。


 私はアテナイ軍総司令官として、テバイの報告連絡隊への手前があるから、アテナイ陣に戻る。


 ギル、おまえの馬はここにつないでおいて、赤毛の娘の後をつけろ。


 重要な任務だ、尾行を絶対に気づかれるな。


 そしてもし、ティリオンさまの手がかりをみつけたら、大急ぎで知らせに戻って来い。


 決してひとりでは手出しをするなよ」



――――――――――――――――*



人物紹介


● レジナ(16歳)……テバイポリスの奴隷村に住む、赤毛の少女。

 ティリオンに一目惚れをし、危険を冒してかくまっている。


● ティリオン(19歳)……かつて、自分の父親の将軍長アテナイ・ストラデゴスを斬る、という大事件を起こし、アテナイ軍を振り切るため、スパルタに逃げ込んだ美貌の青年。


 命をとりとめた父親とアテナイ側の意思で、事件はもみ消されているが、本人は知らない。


 スパルタ王女アフロディア姫と恋に落ち、『レウクトラの戦い』でスパルタが敗戦したため、姫を連れて逃げている。


【※アテナイ・ストラデゴスとは、アテナイの将軍長、という意味の、役職名です】


● フレイウス(26歳)……レウクトラ戦線、アテナイ軍総司令官。

 『アテナイの氷の剣士』と異名をとる剣の達人。ティリオンの『第一の近臣』


 ティリオンを保護するために追っているが、ティリオンのほうは、フレイウスが処刑をするために追ってきている、と誤解している。


● ギルフィとアルヴィ(19歳)……双子でフレイウスの部下。アテナイ軍士官。

 アテナイではティリオンの近臣だった。

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