夜明け前 5 *

「ちょっと姉ちゃん、姉ちゃんたら。そんなこと言ってる場合じゃないよ!」


 弟に夜着を引っ張られて、レジナは、はっとした。


 確かにこんなところで、追われているスパルタ青年兵を相手に、老雌牛マーシに腹を立てている場合ではない。


 賢く勇気がある雌牛、などに負けていられないレジナはきっぱりと言った。


「さ、早く家にお入り。このあたしがかくまってあげるから」


「そんなっ、姉ちゃん、それはまずいよ!」


 最初の『やっつけてやる』宣言とは全く逆の、姉の心変わりに驚き、抗議して、しきりと服を引っ張るソリム。


 そんなものは無視して、美しい青年を手招くレジナ。


「あんた、体の具合が良くないんだろ? 小さいけどあいてるベッドがあるから、休むといいよ。


 その怪我の手当ても家ん中でするといい。腹も減ってる だろ。


 さあ、こっちへおいで」


 だが、せっかくの破格はかくな温かい申し出なのに、青年は困ったような顔をして動かない。


「どうしたんだい? さっさとこっちへ来なよ。


 そりゃ、うちはぼろ家だけど、牛の腹の下よりはマシだよ」


 やや焦れたレジナの口調に、青年はためらいがちに、言いにくそうに打ち明けた。


「実は、私はひとりではないのです。


 もうひとり、ひどい熱を出している連れがいる。


 体の具合が良くないのは、その連れのほうなんです。


 彼女を落ち着いて休める場所で、介抱かいほうしてやりたいのです」


 青年の言葉にレジナは、もともとここにやってきたのは、怪我をしているスパルタ女兵おんなへいがいるかも、と思って確かめに来たのだ、ということを思い出した。


 実際にさっき、熱に浮かされたような女の荒い息を聞いたことも思い出し、口元をきゅっと引き結んだ。


 険しくなったレジナの表情を見て、青年の顔も曇る。


 それでも彼は、意を決したように言った。


「彼女も……私と一緒に家に入れてもらっていいでしょうか?


 その……」


 数舜、途切れたあと継がれた、小さい声。


「私の、妹なのですが……」


 (嘘だ!)


 レジナは女の直感で、妹、と言った青年の言葉に嘘を聞き取った。


 ソリムの方は気づかず、ますます悪化しそうな事態に、


「この上に、妹までいるのぉーっ?!」


 と頓狂とんきょうな声をあげる。


 レジナは菫色すみれいろの瞳で、嘘をつく青年の瞳の中を覗き込んだ。


 追い詰められている青年の美しいエメラルドの瞳には、押しつけがましくレジナに助けを求めるものは、なかった。


 あきらめに似た、悲しいうれいのかげがあるばかりだった。


 はぁーっ、と大きなため息をつき、子供のみえすいた嘘を許す寛容かんような母親のようにレジナは頷いた。


「分かったよ。いいからあんたの妹も、早く連れてお入り」


「そんなっ。姉ちゃん、一体どうするつもりなのっ。


 スパルタ兵なんか……それもふたりも家に入れたことがばれたら、ぼくたちテバイ軍に何をされるか……!」


 悲鳴に近い声を上げるソリムの頭をゲンコツで小突いて黙らせてから、レジナは青年に尋ねた。


「あんた、名前は?」


 一縷いちるの希望をみいだし、嬉しそうな顔になった青年は、さきほどにも増して輝くような麗しの笑みを見せてくれた。


「私は、ティリオンといいます。


 本当にありがとう、勇気ある優しい娘さん」



――――――――――――――――*



人物紹介


● レジナ(16歳)……テバイポリスの奴隷村に住む、赤毛の少女。

 ティリオンに一目惚れをし、危険を冒してかくまうことになった。


● ソリム(10歳)……レジナの弟。


● ティリオン(19歳)……アテナイの将軍長アテナイ・ストラデゴスの息子。美貌の青年。複雑な過去を持っている。


 スパルタ王女アフロディア姫と恋に落ち、『レウクトラの戦い』でスパルタが敗戦したため、姫を連れて逃げている。


【※アテナイ・ストラデゴスとは、アテナイの将軍長、という意味の、役職名です】

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