夜明け前 4

 体の具合が良くなかった、と聞いて、レジナは初めて、美しい青年が体のあちこちに細かい刀傷かたなきずを負っているのに気づいた。


 やっとまた、声が出る。


「あんたも、怪我してるんだね。かわいそうに……大丈夫かい?」


 レジナのやさしい言葉に、青年はほっとした顔になり、にっこり笑った。


「ええ、大丈夫です。ありがとう」


 ついに自分に向けてもらえた、青年の魅力的な笑みに、レジナの全身が一気にかぁっと熱くなった。


 左手が無意識に、胸に下がった母の形見かたみの太陽のペンダントを、夜着の上から強く握った。


 (体が熱いよ、母ちゃん。こんなの初めて!


 このひとが、あたしの運命のひとなの?)


 レジナは、まだ名前も知らない敵軍の美しい青年に、恋をしてしまった。


 自分の見た目が急に気になり、寝起きのまま乱れて広がっていた赤毛を、両手でササッとなでつける。


 赤毛に負けないほど真っ赤な顔になって、どもりながら言う。


「あ、あ、あんた、ス、スパルタ兵なんだろ?」


 青年は長い睫毛まつげを伏せた。


 迷っているような声。


「……ええ……まあ……そうですね」


「戦に負けて、逃げてきたんだろ?」


「……はい」


「これから、どこへ行くんだい?」


「さあ……どこへ行くんでしょう」


 レジナは、青年の悠長ゆうちょうな言い方にあきれた。


 自分たちに危害を加えそうにない、おとなしそうな青年の風情ふぜいに、本来の勝気で姐御肌あねごはだな性格がむくむくと頭をもたげてきた。


「どこに行くんでしょう、ってあんた、自分の立場がわかってんのかい?


 この村には、あんたみたいなスパルタの残兵ざんぺいを探し出して、殺して首をとって褒美ほうびをもらおうっていう兵隊が、いっぱいうろついてるんだよ」


 青年は小さく頷いた。


「ええ、もちろん知っています。


 でも、他の所も捜索の兵でいっぱいで、きのうここにたどり着いてから、身動きがとれなくなってしまったのです」


 レジナは、菫色すみれいろの目を見開いた。


「あんた、きのうからここにいたのかい?」


「……はい、そうです。すみません」


「でも、きのうはテバイ兵が、家も牛小屋も全部調べてったのに」


 不思議そうなレジナに、青年はまた、にっこり美しく微笑んでくれた。


「ああ、それならきのうは、この牛小屋にいる雌牛に助けてもらいました。


 テバイ兵が調べに来たとき、私は掘っておいた穴に身を伏せ、その上にあの雌牛がふたをするように寝そべって隠していてくれたのです」


 青年の説明にレジナは、ほとんど荒らし回るといったやり方で、家と牛小屋を調べられたきのうの光景を思いおこした。


 そういえば、剣や槍で牛小屋中のわらをつつき回し、引っかき回すテバイ兵たちを、老雌牛マーシはどっしり寝そべったまま、じっと頑固がんこそうな目でにらんでいた。


「うーむ、あのマーシの下にいたのかい。


 なるほど、それはわかんなかった。 うまく隠れたもんだねぇー」


 うなるレジナに、青年はにこにこと語った。


「あの雌牛は、マーシ、という名前なのですか?


 マーシはとても賢い牛ですね。


 私が「助けてください」と頼んだら、彼女は私の頼みをたちどころに理解してくれました。

 

 すぐにやって来て、私の上に覆いかぶさってくれたんです。


 それに、とても勇気がある。


 乱暴なテバイ兵を恐れず、ずっと動かずに寝そべって隠してくれたのですから」


 手放てばなしで雌牛を褒める青年に、レジナは妙に腹が立った。


 つっけんどんな口調で言う。


「そんなのは、感心するような事じゃないんだよ。


 マーシは年を取ってる。


 横になってくれ、と頼まれなくても、たいていどこかで寝そべっているのさ」


「はあ、そうなんですか」


「それにあいつは頑固がんこな奴だ。


 一度寝そべる場所を決めたら、そう簡単には動きゃしないんだよ」


「そうだったのですかね?」


 小首をかしげる青年の可愛らしいしぐさに、レジナはますます胸が熱くなって、青年の上に覆いかぶさっていた、というマーシに腹が立ってきた。


「そうだよ。マーシはしょせん牛なんだよ。


 あんたの頼みが、わかってたわけじゃない。


 たまたま、あんたの上に寝そべっただけなのさ」

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