王族逃亡 2

 夕刻から降りだしたのは、この季節には珍しい土砂降りの雨だった。


 時は、紀元前371年。晩夏のギリシャ。


 場所は、 都市国家テバイの治める、レウクトラの地。


 のちに、戦いの行われた地の名を取って『レウクトラの戦い』と呼ばれた戦争は、終焉しゅうえんを迎えていた。


 無敵、と呼ばれていた強豪スパルタ軍が大敗するという、驚天動地きょうてんどうちの結果だった。


 そしてレウクトラの地には、ザァーザァー、という土砂降りの雨の音ととも、走り回る兵士たちの声がまだ響いていた。


「捜せ! 捜せ! まだ近くにいるはずだっ」


「絶対に見つけろ!!


 スパルタの黄金獅子きんじしもアフロディア姫も、どちらも逃してしまいました、などと報告はできんぞっ!」


 勝利者テバイと同盟軍の兵士たちは、敗者スパルタの王族を捜していた。


 ずぶぬれになり泥を跳ね上げながら、戦場中を必死で駆けまわっていた。


 スパルタ黄金獅子きんじしこと、クレオンブロトス王が最後に逃げ込んだ林やその近辺は、特に念入りに捜索された。


 が、彼らの努力は全くむくわれていなかった。


 見つからなかったのである。


 捜索を指揮するテバイ軍の大隊長は、捜索拠点のひとつにした大きな木の根元に張らせたの中で、部下に怒鳴り散らした。


「なにぃ、いない?


 いない、などという言葉はもう聞きたくないわっ!


 この役立たずの馬鹿もんどもめらがっ!


 もっと気合を入れて捜さんかっ。


 きさまら、肝心の王族を二人とも見つけられずに、このままおめおめとテバイ本陣に戻って、ペロピダス総司令官に報告できると思っているのかっ! 」


 首をすくめる報告の部下たちに、盛大に唾を飛ばしながら大隊長はわめいた。


「大体っ、アフロディア姫はともかく、スパルタの黄金獅子きんじしは、生きていたとしても瀕死ひんしの重傷のはず。


 そんな者が遠くまで逃げられるものかっ。


 必ず、必ず、見つけるんだ。見つかるまで捜し続けろ!


 草の根分けても、捜せ、さがせ、さがし出せ――――っ!!」


 上官にそう怒鳴られ、途方にくれるあまり、本当に草の根を分けて捜してみる兵もいた。


 けれど虫ではあるまいし、そんな所に見つかるはずはなかった。


 ただ、彼らの捜している人物のひとりは、実は彼らの、ほんの近くにいたのだ。


 ティリオンは、アフロディア姫を胸にしっかりと抱きしめ、大声で怒鳴るテバイ大隊長のの後ろの、大木たいぼくの枝にひそんでいた。


 敵兵のあまりの多さに、自分ひとりで失神状態のアフロディアを連れて戦場を抜けるのは無理、と判断したティリオン。


 彼は、アテナイ将軍長アテナイ・ストラデゴスの子息として教育された能力を発揮して、地形を読み、この場所が、いくつか置かれるであろう捜索拠点のひとつになると予測した。


 そこで、捜索拠点にが張られる前から、ひそかにこの木に登っていたのだ。


 大木の上に登る前に、アフロディア姫の装身具そうしんぐも、立派な王族の鎧も脱がせて、みつからないように埋めた。


 折れかけていた自分の剣も、捨てた。


 目立つもの、重量のかかるものは全て捨て、身軽にはなったが、もはや戦うすべはなく、ここで見つかれば最後だった。


 だが、指揮するテバイ大隊長も、まさか自分の頭上に逃亡中の王族がいる、とは思っていなかった。


 激しく雨のうちつける布屋根ぬのやねからわざわざ外に出て、びしょぬれになりながら、雨にけぶる背後の大木の枝に目をこらそう、などとは全く考えもしなかった。


 捜索をしている部下の兵たちも、ここに残念な報告に来る時は、上官である大隊長の顔色ばかりをうかがっていた。


 テバイ捜索隊の拠点のひとつに、あえて身を置くことによって、ティリオンは、敵の大捜索網だいそうさくもうから見事に姿をくらましたのである。


 いとしい恋人を自分の体でつつむように抱いて、降りしきる冷たい雨からかばいながら、彼はずっと動かずに耐えていた。


 一刻も早くテバイ兵たちがあきらめて、この区域から引き上げてくれるのを念じて。


 ティリオンの腕の中で、アフロディアは発熱していた。


 それは、雨に打たれたせいばかりでは無論むろんない。


 彼女は今日、一番の幼なじみクラディウスが、自分の腕の中で息絶えるのをみとった。


 瀕死ひんしの兄王と、最後の別れをした。


 多くの味方の兵士たちの無残な死をの当たりにしてきた。


 その精神的ショックの大きさは、ティリオンの想像にかたくなかった。


 そしてティリオン自身も、深手ふかでではないものの、ここにたどりつくまでの激しい戦闘で受けた細かい刀傷かたなきずから流れる血が、雨のためになかなか止まらずにいた。


 時折、ふっと遠くなる意識を、気力だけで持ちこたえている状態だった。


 (去ってくれ、去ってくれ……


 この区域にはいない、と判断して、早くあきらめて去ってくれ。


 頼む!)


 ティリオンは、ぐったりしたアフロディア姫を深く案じ、ひたすらに祈った。


 そんなふたりにも残酷な雨は、叩きつけるように降り続ける。

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