第二章 テバイ本陣総司令官天幕

テバイ本陣総司令官天幕 1 *

 土砂降りの雨は、朝日と共に、からりと上がった。


 『レウクトラの戦い』が終わった、翌日の朝。


 テバイ本陣の総司令官天幕の中。


 レウクトラ戦線、テバイ軍総司令官のペロピダスは、怒りの表情で腕組みをし、天幕の中央に仁王立におうだちしていた。


 ごつい体に、牡牛おうしの紋章のテバイ軍鎧と、マント代わりの夏の肩布かたぬのをつけている。


 角ばった野性的な顔だちで、頭髪とつながった濃い黒髭くろひげの、ペロピダス。


 彼は、総司令官天幕の隅にうずくまるひとりの人物を、無言のまま恐ろしい顔つきでにらんでいた。


 にらまれているのは、ペロピダスの三弟、28歳のダリウスである。


 ペロピダスの三弟ダリウスは、二メートルを越える毛深い巨体が、熊のような印象を与える巨漢である。


 見かけにたがわず、大きな鹿の首をも、素手でへし折ったことのある経歴の持ち主で、気性きしょうも荒く、力まかせの乱暴な行動が多い。


 頭のほうはあまり良さそうでない、獰猛どうもうな彼の顔を見ただけで、災難のふりかかるのを恐れて、道を避けるテバイ兵もいるほどだった。


 そのダリウスが、いじいじと情けない様子で巨体を丸め、32歳の長兄ペロピダスににらまれてうずくまっている。


 熊のごとき巨漢のそんな姿は、あわれというより、もはや滑稽こっけいに見えた。


 そしてダリウスの、毛むくじゃらの左の手で大事そうに抱えられている、丸太のような右腕は、ひじの先あたりからすっぱりと斬り取られて、無かった。


 ぐるぐると巻かれてある包帯に、大きく血がにじんでいる。


 彼の右腕を斬り落としたのは、もちろん、スパルタの黄金獅子きんじしことクレオンブロトス王である。


 やがてダリウスは、兄ににらみつけられたままの、息詰いきづまるような沈黙に耐えかねたのか、ぼそぼそと言い出した。


兄者あにじゃ、本当に俺は、黄金獅子きんじしをこの手でったんだ。


 間違いない……奴は死んでいる」


「……」


「確かに、確かに手応えがあった。


 腹をくし刺しにしたあの傷は、しがみついてた兵もろともだったにしても、致命傷だったはずだ」


「……」


「俺とてテバイでは、『恐怖の熊爪』と、名のある剣士。


 相手をったかってないかくらいは、わかる。


 戦場から集めた、あの死体の山を調べれば、奴の死体は必ず出てくる。


 信じてくれや、兄者あにじゃ


 ダリウスの言葉にも、兄のペロピダスは黙ってにらみつけるばかりである。


 昔から、自分より少し利口な兄に頭の上がらないダリウスは、びくびくして、斬られた腕を治療したあと着せられた、白い特大の貫頭衣かんとういに包まれた巨体を、いよいよ縮こめた。


 しばらくして、天幕にひとりのテバイ士官が入ってきて報告した。


「申し上げます、ペロピダスさま。


 ご命令どおり、敵の死体、味方の死体とも、すべてを集めてあらためて調べましたが……


 スパルタの黄金獅子きんじしも、アフロディア姫のものも、ありませんでした!」


 これを聞いてダリウスが青くなり、あわてふためいて大声を上げる。


「そんなっ!!


 そんなはずはないっ。もう一度調べてみろ! 


 俺は確かに、スパルタの黄金獅子きんじしの腹を刺して殺したんだ。


 この手で殺したんだ!」


 腕組みをといてペロピダスが、つかつかとダリウスに近寄った。


 革の長靴ちょうかの足を上げると、うずくまっている三弟の肩のあたりを、どかっ!! と思い切り蹴る。


 うぎゃあ!! と叫んで、転がるダリウス。


「いてぇっ! いてぇよっ、兄者あにじゃっ」


 ペロピダスは転がったダリウスを追いかけ、どかっ! どかっ! とさらに蹴りつけた。


 ぎゃあっ! うぎゃぁっ! と、痛みに悲鳴をあげ、ますます丸くなる巨体に向かって、初めて口を開いた。


「俺さまの命令を無視して、自分ひとりで勝手なマネをしやがってぇっ!


 このっ、このっ、無駄メシ食いの、ウスラ馬鹿がっ!


 絶対に手出しをするな。黄金獅子きんじしを殺すのは『神聖隊しんせいたい』に任せておけと、あれほど言っておいただろうがっ。


 くっそ――っ!


 黄金獅子きんじしもアフロディア姫も、ふたりとも逃がしてしまったのは、ダリウスっ、みんなおまえのせいだっ!!」



――――――――――――――――*



【※牡牛おうしは、テバイポリスの守護神である、ディオニュソス神の聖獣です】


 ここで『ギリシャ物語』の時代について、ごく簡単に説明させていただきます。

(ご考までに、です。

 以下、お読みにならなくても、ストーリーに差しつかえありません)


 紀元前433年頃 ペロポネソス戦争が起こる。

(ペロポネソス同盟盟主スパルタ VS デロス同盟盟主アテナイ)

   ⇩

 長い戦争なだけに、色々なポリスがからみあい、紆余曲折あり。

 ペロポネソス戦争の途中で、アテナイの指導者ペリクレス、疫病で死亡。

   ⇩

 紀元前404年頃 スパルタ勝利、アテナイ降伏。

 約30年にわたるペロポネソス戦争が終結

   ⇩

 コリントス戦争が起こる。

(スパルタ VS コリントス、アルゴス、テバイ、アテナイの四大ポリス同盟)

   ⇩

 9年後、コリントス戦争終結。

 スパルタ勝利、四大ポリス同盟敗北。『ペルシャ大王の和約』が結ばれる。

   ⇩

 ペロポネソス戦争が終わってから、30年以上、ギリシャの筆頭ポリスとして、スパルタが力をもつ。

   ⇩

 紀元前372年 ←『ギリシャ物語』『ギリシャ物語 外伝 ~旅のはじまり~』

   ⇩

 紀元前371年 ←いまここです『ギリシャ物語 Ⅱ』

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