第十四章 踊り子

踊り子 1

「それでね、ピレウスの港市場に魚の新荷が届くたび、魚屋の鐘が打ち鳴らされるんだけど、そこで面白い話があるんだ」


 井戸のロープを引きながら、栗色の髪のアテナイ青年兵は、クスッとひとり笑いした。


「アハハハハハ、教えて、教えて!」


 レジナも笑いながら、話をねだる。


 井戸の水を汲みながらの陽気なアテナイ青年兵のお喋りは、いつしかアテナイ面白話に発展していた。


 レジナはさっきから、青年兵の話にお腹をよじらせて笑っていた。


 青年兵は話し始めた。


「ある日、ある音楽家が、市場の近くの部屋で竪琴をひいてたんだ。


 彼の回りには、彼の友人がたくさん集まって演奏を聴いていた。


 ところが魚屋の鐘が鳴ったとたん、友人たちは皆、演奏なんか放って、どやどやと魚を仕入れにいってしまったんだ。


 残ったのは、老人がたった一人だった。


 音楽家はその老人の前に来て、言った。


『ありがとう、あなただけですよ、音楽を聴く作法を心得ていらっしゃるのは』


 老人は不機嫌に答えた。


『え? 何だって?』


 音楽家は、はっきりと言った。


『だから、魚屋の鐘が鳴っても、残ってくれたのはあなただけでしたから』


 すると老人はあわてて立ち上がった。


『魚屋の鐘だって? もう鳴っちまったのか?


 いやわしは、耳が遠くていままで何も聞こえてなかった。


 教えてくれてありがとうよ!』


 そして皆のあとを追って、すぐ行ってしまった。


 音楽家は呆然とするばかり」


「アハハハハハ、アハハハハハ、ハハハハハハハハ!」


 大笑いするレジナ。青年兵もクスクス笑っている。


 やがて大樽には水が一杯に張られた。


 レジナは、腕で汗を拭う青年兵に、丁寧に礼を言った。


「本当にありがとうございました。


 あたしひとりじゃ、一晩かかっても終わんなかったです。


 ご親切、忘れません。助かりました」


 青年兵は耳の後ろをちょっとかいて、照れくさそうに笑った。


「いやぁ、いいんだよ」


「それに、とっても面白いお話をたくさん聞かせてくださって、ものすごく楽しかったです。


 あたしも、いつか絶対デルポイとアテナイに行ってみたいです」


「うん、ぜひ来てよね。かわいい女の子はいつだって大歓迎さ。


 あ、ヤバイ! 僕もう、戻らないとまずいや、それじゃ」


「待って!」


 レジナは、立ち去ろうとした親切な青年兵を呼び止めた。


「あの、あの、お名前を教えてもらえますか?」


「ああ、僕はアルヴィ。君は?」


「レジナといいます。


 アルヴィさん、本当にありがとうございました」


 体を二つ折りにするレジナに、アルヴィは笑って手を振り、今度こそ去っていこうとした。


 が、少し行ったところで急にあわてふためいて、逃げるように走って戻ってきた。


 大樽の影にしゃがみ、隠れるアルヴィ。


「どうしたんですか?」


 レジナは驚いて尋ねた。


 アルヴィはひとさし指を一本、口にあてて顔をしかめた。


 レジナは、アルヴィが逃げ戻ってきた方を見た。


 タンポポ色の黄色い髪のもしゃもしゃした細かい巻き毛の男がひとり、ぶらぶら歩いていく。


 男の姿はほどなく、ひとつの天幕の向こうに消えた。


 隠れているアルヴィが小声できく。


「タンポポみたいな黄色い頭の奴がいるだろ? 奴は行ったかい?」


 親切なアルヴィのために、タンポポ頭の男が戻ってこないか、レジナはしばらく様子をうかがってやった。


 さっきまで聞こえていた兵士たちの浮かれ騒ぐ声が、今は妙に静かになっている。


 速い胸の鼓動のような太鼓の音だけが、中央広場のほうから聞こえてくる。


 タンポポ頭の男の戻ってくる気配はなかった。


「どこかへ行ったみたいですよ」


 レジナの言葉に、アルヴィは胸をなでおろし、つい独り言ひとりごとした。


「どうも暑くなると、あいつはゴキブリみたいに出てくるなー。


 あの黄色いゴキブリに狙われて、ティリオンさまも大変だったよなぁ」


 ガラガラガラガラ! と激しく滑車が回り、井戸のふちに置いていた水くみ桶が落ちていった。


 後ろへ下がったレジナの手が当たって、落ちたのだ。


 ボチャーン、と虚ろな水音が、静かになったテバイ陣にやけに大きく響いた。

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