酒宴の始まり 6

 背伸びをし体をふくらませたレジナに睨まれて、大樽女は憎々しげに鼻を鳴らした。


「ふん! とにかくここに来た以上、 仕事はみんなと同じようにやってもらうからねっ。


 言われたことは最後まできちんとおやりっ。


 大樽いっぱいに水が汲めたか、あとで見に行くから、さぼってたら承知しないよ!」


 そしてどすどす足を踏み鳴らして立ち去った。


 レジナが腹立たしそうに憎まれ口をきく。


「あのデブ、偉そうに仕切りやがって、何様のつもりなんだい、うざい奴!」


 それから、内股で肩をすぼめているティリオンの方を向き、優しく言った。


「大丈夫、水くみはあたしがやるよ。


 あんたはここの隅に座って、おとなしく芋の皮むきをしてるんだよ、いいね」


 こうしてレジナは、厨房ちゅうぼう天幕を出て井戸に向かった。


 テバイ兵約500人と、アテナイとコリントスの客人たちの宴会のための厨房ちゅうぼうとして張られた天幕は、全部で四つ並んでいる。


 井戸は、レジナが出てきた厨房ちゅうぼう天幕から、一番遠い厨房ちゅうぼう天幕の横にあった。


 井戸に向かって歩くレジナの耳に、陣の中央広場の下級兵士たちの宴会場から、大勢の浮かれ騒ぐ声が聞こえる。


 ろれつの怪しくなった叫びや、バカ笑い、誰かをはやし立てる声、調子はずれの歌なども聞こえて、早くもかなり酒の酔いが回り始めているようだった。


 井戸に到着したレジナは、井戸のそばに置かれてある、自分の胸あたりまでも高さがある大樽に憂鬱ゆううつなため息をついた。


 気を取り直し、井戸桶を井戸の中に落とし、水を入れてから、滑車のロープを握って力をこめてたぐり始める。


 けれど滑車はきしむばかりでなかなか回らず、井戸桶は上がってこない。


 実はこの井戸はもともと野井戸で、長く放置されていたのを、テバイ軍がここに陣を張ってから使いだしたものだった。


 そのため、手入れをされず傷んできている木滑車もくかっしゃは、ひびが入り変形もしていて、少女ひとりぐらいの力では簡単に回らなくなっていたのだ。


 レジナが歯をくいしばって懸命にロープを引いていると、後ろから声がかかった。


「やあ、こんばんは。大変そうだね」


 レジナが振り向くと、短い栗色の髪に茶色の目の優しそうな青年兵が立っていて、にこにこしていた。


「手伝ってあげるよ」


 青年兵はそう言うと、近寄ってきて井戸のロープを持ち、兵士として鍛えた男の腕力で、強引にロープをぐいぐいと引いて水をくんでくれた。


「どうも、ありがとうございます」


 清々すがすがしい青年兵の親切に赤くなりながら、レジナが礼を言う。


 青年兵は、大きな樽を指さした。


「まさか、これをいっぱいにするつもりなの?」


「はい」


「へぇー、それじゃほんとに大変だ。


 この滑車は、いたんで変形しちゃってるみたいだもの。


 よし、それなら、もう少しくんでいってあげよう」


 青年兵がまたロープを引き始めたので、レジナはあわてて言った。


「あ、いいんです。


 兵隊さんにこんなことさしちゃ、怒られます。


 あたしがしますから、宴会に行ってください」


「女の子ひとりじゃ、こいつは無理だよ。


 僕の事なら、気にしなくていいから」


 気さくに言って、にこっと笑う青年兵。


 白い歯がこぼれる魅力的な笑顔に、レジナの胸がどきん、と鳴る。


 ふたりは力を合わせて、一緒に水をくみだした。


 青年兵の革鎧をはじめとする身なりは、すっきりと美しく上品な感じで、あきらかに位持くらいもちの士官のようだった。


 もちろんテバイの兵隊ではないとわかったので、おずおずとレジナはきいてみた。


「兵隊さんは、どこの国のかたなんですか?」


「僕はね、アテナイから来たんだ」


「アテナイからですか。


 あたし、聞いただけなんですけど、アテナイってとっても綺麗なみやこなんですってね」


「うーん、どうかな? 街なかは結構ごちゃごちゃしてるよ。


 けど、公共施設や郊外はかなり綺麗かな。


 僕のおすすめはやっぱ、アテナ女神さまをまつったパルテノン神殿だね。


 壮大で綺麗な神殿だし、あのあたりは海の眺めもサイコーにいいしね」


「知恵と勇気の女神、アテナ女神さまかぁ。


 きっと立派な神殿なんでしょうね。


 あのう……デルポイのアポロン神さまの神殿なんかも、きっと立派ですよね?」


「え? デルポイ?


 えーと、ああ、そうだね。


 僕はデルポイには一度だけしか行ったことないけど、デルポイのアポロン神さまの神殿も立派だね」

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