災難の夏(フレイウスの回想) 4

 フレイウスは胸に飛び込んできた最愛のあるじを、しっかりと抱きしめた。


 しがみつくティリオンは、真っ青な顔でぶるぶると全身を震わせていて、15歳の近頃にないうろたえ方とおびえ方だった。


 一見、負傷して出血などはしているように見えなかったが、目は涙目で、唇の色は完全に失せ、ただごとではなかった。


 フレイウスは抜刀ばっとうし、さやを下に落として左腕でティリオンをかかえなおし、右手で倒れた怪物のほうに油断なく剣を向けながら、心配して尋ねた。


「どこかお怪我をされましたか? ティリオンさま」


 ティリオンはフレイウスを見上げ、血の気のない唇を開いて何か訴えようとした。


 ところが、急に恥ずかしげな表情になると、口を閉じ、フレイウスの胸に顔を埋めて無言で首を横に振った。


 ティリオンのかわりに、双子が口々に言った。


「海からいきなり、あの怪物が現れて!」


「ティリオンさまに、襲いかかったんです!」


 海に目をやると、それほど遠くない沖に小舟が一艘浮かんでいて、数人の人影があわてた様子でかいを漕いで遠ざかろうとしていた。


 ザバアァァァッ!! と激しい水音がして、緑色の怪物が復活して立ち上がった。


 はっとして、ティリオンを背中にまわして庇い、身構えるフレイウス。


 双子も怖い顔になって、両手をこぶしにして戦う姿勢をとり、フレイウスの両側で構える。


 そんな皆の見る前で、緑色のビラビラしたものに覆われた怪物の頭が、ずるり、と下にずれた。


 ばちゃっ! と水しぶきを飛ばして、ビラビラは落ちた。


 落ちた緑のビラビラは、波の間にぶわっとひろがり、単なる長い海藻かいそうの束だったことがわかった。


 そして、落ちた海藻かいそうのあとに出現したのは、フレイウスには見間違うはずもない、あの男の顔。


 昨日の、あのテバイ親睦使節しんぼくしせつだという、黄色いタンポポ頭のネリウスだった。


 愕然とするフレイウス。


 恍惚こうこつとした表情の、ずふ濡れタンポポ頭。


 ぬめぬめした紅い口からは、ねばり気のあるよだれが糸を引き、鼻からは興奮の鼻血がたらたらと流れ出ている。


 その上ネリウスは、真っ裸のようだった。


 ただ体には、まだ何本もの長い海藻かいそうがからみつき、気味悪くぶらさがっているので、見たくもない部分が隠されているのが救いだった。


 おぞましさ全開のその顔その姿に、ヒッ! と小さく悲鳴を上げ、ティリオンと双子があとじさり、虫酸むしずが走ったフレイウスまでが数歩、後ろへ下がった。


 そんなことにはお構いなく、ネリウスは、自分勝手な考えを熱っぽくまくし立てはじめた。


「すごい、すごいですぅ。


 かっこいい『アテナイの氷の剣士』さまにもう一度、サプライズでお会いしようとご訪問したら、こんなすごい美形が他に三人もいるなんて!


 しかもひとりは、この世のものとも思えぬ美しさ。


 まさに神の手による芸術品。至高しこうの宝石。奇跡の花。


 その子……その銀髪の天使を私に渡してください!


 その子は、天が私のために遣わされた子なんです。すぐわかりました。


 私のために創られた、銀の天使。


 愛の詩人、情熱の狩人かりうど、悦びの使者である、私の運命の恋人。


 その子は天が定めた私のものだけど、買えというなら、かねを出してもいいです」


「なっ!!!!」


 あまりに慮外りょがいの言葉、不埒ふらちな言いように、フレイウスは開いた口がふさがらなかった。


 ティリオンの身元を知らないからの発言だとしても、信じられない非常識さだった。


 ネリウスは、傲慢無礼ごうまんぶれいに続ける。


「氷の剣士さま……フレイウスさまとおっしゃるそうですね。


 その子、あなたの恋人ってわけじゃないでしょ。


 あきらかに手付かずですもんね。


 だったらかまわないでしょ。天の采配さいはいに従ってください。


 その子が遅咲おそざきで、どうやらまだとこの教えも受けてないのは、運命の恋人である私と巡り合うのを待っていたからなんですよ。


 間違いありません。


 運命の恋人である私が、その子にとこを教えます。導き手となります。


 その子を愛の世界へ導いて、色んなこと、教えてあげます」


 それからネリウスは首をのばし、フレイウスと双子の後ろで、裸の体を隠すように両手を回し、縮こまって怯えた目を向けているティリオンをのぞき見た。


 にまぁーっ、と好色な笑みをうかべると、左の手の平を、べろり、と意味深長にめた。


「ちょーっと握っただけで、あんなにびっくりして新鮮な反応をしてくれちゃって、ホント、かわいくってたまんなーい。


 引っ張れちゃったのは、双子ちゃんが無理にはがそうとしたからですよー。私のせいじゃないでーす。


 こっちいらっしゃい。引っ張れて痛かった大事なとこ、撫で撫でしてあげるからぁ」


 瞬間、ティリオンが何をされたかを知ったフレイウスは、目がくらむほど激怒した。


 賓客ひんきゃくであろうが親睦使節しんぼくしせつであろうが、こいつを絶対殺す、という一念で前へ飛び出す。


 凄まじい殺意の放射を受けて、比類なき厚顔無恥こうがんむちのネリウスも、さすがに命の危険を察知し、悲鳴をあげて逃げ出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る