夜明け前 2 *
「やめてよっ」
ソリムはあわてて、気の強い姉の腰にしがみついた。
「なら、すぐに逃げよう。村に行こうよ。
ウチの牛小屋に敵の兵隊がいる、助けて、って村の誰かに助けに来てもらわなくちゃ」
レジナはしがみつく弟を見下ろし、かぶりを振った。
「だめだね。村の連中が助けになんて、誰も来ちゃくれないよ。
あいつらは羊よりも臆病で、こういうことになると冷たいんだ。
あたしたちが戸を叩いても、
しっかり者のレジナと、おとなしいソリムの
けれども、
一年前に亡くなった父親が、
加えて、ソリムを産んですぐ亡くなった母親が、怪しげな占い、などをやっていたせいもあって、親しいながらも何となく
それに人間というものが、どれほど自分の身だけがかわいいものか、ソリムの母親がわりとして苦労してきたレジナには、良く分かっていたのである。
おとなしくて気の弱いソリムは、
「待って、待ってよ姉ちゃん!
僕の聞き間違いだったかもしれない。野良犬の鳴き声だったかもしれない」
「だから、それを確かめるんだよ」
「そんな……
本当にスパルタの兵隊だったら、危ないよっ。殺されちまうよ、姉ちゃん!
とあえず逃げようよ。村の広場にでも走っていって、夜が明けて、みんなが外に出てくるまで座ってよう」
真っ当でなおかつ、賢明なソリムの提案だった。
しかしこの時、姉のレジナは、自分の内に激しく燃え上がる怒りを感じていた。
(スパルタめ!
あいつらがこんなとこまで攻めてきたせいで、今年もきっと
敵兵に家や畑を荒らされ、焼かれたりもするってのに、その上に高い
味方のはずのテバイの兵にだって、食料を食い散らかされ、接収だ、とか言って、わずかな家財道具まで持ってかれる。
兵隊なんてみんな、だいっ嫌いだ!
いつかこの手で、目に物みせてやろうと思ってたんだ)
軍や兵士に向けられたその怒りは、根本的には、彼女ら農耕奴隷を
いつもは、恐れやあきらめ、という奴隷感情の中に深く埋もれているものだ。
だが、
レジナは鼻から、ふんっ、と荒く息をはいた。
「ソリム、あんたはここに残ってていいよ。
大丈夫さ。怪我をしてる敵の女くらい、いざとなったらこのあたしがやっつけてやる!」
言い放って、彼女は寝室から居間へ移動し、そして台所に行き、裏口の戸のかんぬきを外した。
牛小屋は、家の裏にあるのだ。
早朝の
外へ出たレジナは、そろりそろりと牛小屋に近づいていった。
肩の上で手斧を構え、寝起きのざんばら髪のまま、怖い顔をして進む女の姿は、少女とはいえかなりの迫力だった。
ソリムも、ひとりぼっちにされるほうが怖かったので、姉の後ろに隠れるようにして、がたがた震えながらもついていった。
表面がぼろぼろになりつつある、
戸口がわりの三本の
はじめは、何も聞こえないと思った。
ところが、じっと聞き耳をたてていると、ごくごくかすかではあるが、あきらかに人間の、それも若い女のものと思われる、熱に浮かされたような荒い呼吸が聞こえた。
そのとたん、怒りによってどこかへ押しやられていたレジナの恐怖心が、あっさり戻ってきてしまった。
(野良犬なんかじゃない、やっぱりスパルタの
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【※スキタイ人とは、前8世紀頃から前3世紀頃にかけ、黒海北岸からカスピ海北岸のヴォルガ川までの草原地帯で活動した、遊牧騎馬民族です。
高い騎馬技術と金属器文化を持っていました。
黒海沿岸のギリシャ植民都市と交易があり、傭兵としても活躍しました】
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