第三章 夜明け前

夜明け前 1

 テバイポリス、レウクトラの地の奴隷村。


 夜明け近くに、16歳の赤毛の少女レジナは、弟ソリムに起こされた。


「姉ちゃん、姉ちゃん、起きてくれよ!」


 10歳の弟、ソリムの声は、ひそめられてはいたが語気は強かった。


 横たわる姉の体を揺する両手の動きも、かなり激しい。


 揺すられたレジナは、寝ぼけた声でぶつぶつと言った。


「う~ん、やめとくれよ、うるさいねぇ~。


 もう大きいんだから、おしっこは一人でお行き」


「外におしっこに行ったんだよ、さっき……」


 と、ソリム。


「ならいいじゃないか。


 あたしは疲れてんだよ、もうちっと寝かしておくれ」


 レジナは答えて寝返りをうち、弟に背を向けた。


 が、粗末な寝台の横に立つソリムは、なおも体を揺すぶってくる。


「おしっこに行ったらさ、牛小屋で変な声がするんだ。


 誰かいるみたいなんだよ」


 眠いレジナは、麻の夜着の腰のあたりを指先でポリポリと軽く掻いて、不機嫌に言った。


「ん~、誰かいる、だって? 


 ……誰もいやしない……来やしないよ。


 こんな貧乏な家には、ふぁぁ、泥棒だってこない……」


 それから急に、がばっ、と上半身を起こした。


 菫色すみれいろの目を見開いた顔のまわりの、クセのある長い赤毛が、寝乱れたままにぶわっと広がっている。


 (そうだった! いくさがあったんだった!!)


 すっかり眠気ねむけの吹き飛んだ声で、弟に尋ねる。


「声がするって、誰かいるって、それは確かかい?!」


 ソリムが、こくこく、と首を縦に振るのが、夜明け前の暗い部屋の中でわずかに見える。


 レジナは念を押した。


「それ、マーシの鳴き声じゃないのかい?」


 マーシ、というのは、姉弟きょうだいが飼っている、たった一頭の老いた雌牛である。


 年を取って乳は出なくなり、肉も筋張っていて、牛としての価値はもうない。


 だから盗まれる心配もない。


 たまに、重い物を動かす時に引かせるくらいで、昔からの愛着があるというだけで細々と飼っている、頑固な性格の老雌牛であった。


 姉の赤毛ほどではないが、赤っちゃけた髪のソリムが、今度は首を横に振る。


「ちがう、あれはマーシじゃないよ。


 人の……たぶん女の人の、うめき声みたいな……


 苦しがってるみたいな声だった」


「女のうめき声?」


 レジナは口をへの字に曲げ、難しい顔で考え込んだ。


 ここは、テバイ・ポリスの支配を受けている、レウクトラの地の奴隷村のひとつである。


 この村の近くでおととい、スパルタ、対、テバイ、アテナイ、コリントスの、三国の同盟軍とのいくさがあった。


 そして、無敵といわれたギリシャの覇者スパルタが敗れる、という信じられないような出来事が起こったばかりだったのだ。


 幸いにもレジナたちの村は、戦いには巻き込まれなかった。


 ただしきのうから、敗者スパルタ軍の残兵狩ざんぺいがりが、厳しくおこなわれ始めていた。


 村はずれにぽつんとある、レジナとソリム姉弟きょうだいの農家にも、テバイ兵が何度もやってきて、怪しい者が隠れていないか調べていった。


 もちろん牛小屋も調べていった……のだが。


 しばらく考え込んでいたレジナは、やがて険しい顔で決心し、寝台から出て立ち上がった。


 麻の夜着の貫頭衣かんとういの裾が、するりとふくらはぎまで降りる。


 夜着の下に、革ひもで首から下がる母の形見かたみのペンダントを、布の上から左手で、ぎゅっと握りしめた。


 占い師だった、という母の、円の中に太陽の形のあるペンダントだ。


 それから、この戦が始まって以来、用心のために寝台のそばに立てかけてあった手斧ておのをとった。


 姉が手斧ておのを取ったことに、ぎくっとして、ソリムが小さく叫ぶ。


「姉ちゃん、どうするつもりなの?!」


 レジナは、凄味すごみのある声で答えた。


「もちろん、牛小屋に何がいるのか、確かめにいくのさ。


 女のうめき声、って言ったよね。


 ずっと前に父ちゃんに、傭兵ようへいは別として、ギリシャの正式の軍隊で女の兵隊がいるのはスパルタだけだ、って話をきいたことがある。


 だから、怪我したスパルタの女兵おんなへいが逃げてきて、うちの牛小屋にもぐりこみやがったのかもしれないからね」

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