乙女の祈り
あたしには、好きな人がいる。
「永瀬さん!ランチいきましょうよ。相談が……」
「あー、ごめん。今日はちょっと、先約があって」
仕事の相談があるんです、と、言い切らせてすらもらえなかった。相談があるなんてのはもちろん嘘で、ランチに誘いたいだけの口実だ。
あたしの好きな人、直属の上司の永瀬さん。彼には奥さんがいる、ということは知っている。よくないことをしている自覚はあるが、彼はあたしのこと、満更でもないんじゃないかな、と思っている。だって、気にかけてくれるし。仕事のこととはいえ、ここまで面倒見てもらえてる部下は、あたししかいないと思う。
落胆して、昼食を買いに行こうと席を立つと、事務員のオバサンに声をかけられた。
「永瀬さん、土日は奥さん休みだから家でご飯食べるんだよ。知らないの?永瀬さんが結構な愛妻家って有名な話だと思うけど」
愛妻家どうのは知らないけど、既婚者であることは知っている。おそらく彼女は、不倫だからやめときなさいと言いたいんだろう。関係ないでしょ、当人同士の問題なんだから。
「そうなんですかあ?残念です!」
何もわかってない人たちに茶々入れられるなんてごめんだ。あたしは軽く愛想笑いをすると、そそくさとオフィスを出た。
***
「……っていうことがあって。困ってるんだよね。会社の子だから変に突き放すわけにもいかないし、どうしたらいいのか……」
「ええ?うちに連れてきてあげたらいいじゃない」
いいじゃない。じゃないんだよなあ。
俺の妻はいつもこうだ。俺に近寄ろうとする女性に対して、変に好戦的というか……。
俺の妻は、俺の目から見ても、世間の目から見ても、美人だと思う。美人な上に、教養もあって、気遣いもできて、仕事もできて……まあ、欠点がない。それを本人も自覚しているのだと思う。誰からも愛され、愛される者の自負があるから、それ故に強い。
学生の頃からそうなのだ。特段顔がいいというわけでもないのに、俺はなぜか昔から少しモテて、その度に彼女は、その子と少し話してみたいなどと言う。好きな人が同じって、気が合うと思うの!私もその子と仲良くなりたい!なんてよく言っていた。そうして決まって、俺よりも彼女と仲良くなって、三人で休日に出かけたりした。気まずいことこの上ない。
最近は歳をとってきたのもあってそういうことがなくなってきたので、少し油断していた。
「若い子とお話できるなんて楽しそう」
「……わかったよ。今度言っておく。次の土曜でいい?」
ニコニコと笑う妻の顔があまりにも眩しくて、折れてしまった。また面倒なことになりそうだ。
***
「次の土曜、ランチの時間あけられる?」
奥さんがいつも料理作りすぎちゃうから、嫌じゃなければ一緒にどうかって。
もちろんです!と快諾した。
詳細も聞く前に、カレンダーのアプリに予定を書き込む。
ついに……ついに、あたしの努力が報われる時がきたのだ。永瀬さん、会社の近くに住んでいることは知ってたけど……、どんなお家なんだろう。期待に胸が膨らむ。
事務員のオバサンたちがヒソヒソと何かを話していたとか、彼はあまり乗り気じゃないような顔をしていたとか、
土曜のランチに備えて、金曜に有休を取って美容院の予約を入れた。金曜に控えていた来客対応を根暗な同期に頼むと、何やらブツクサ文句を言っていたが、無視した。こいつはあたしより営業成績が悪いだろうから、譲ってあげたことをむしろ感謝してほしいくらいだ。
***
当日。
12時に会社の前で待ち合わせて、奥さんが迎えにきた。正直、対面した彼女の姿を見て、何かの間違いだと思いたかった。
永瀬さんは、正直言ってモテる方だと思う。社内で少なからず彼を想っている女性は、あたしだけではないと思う。その中には、同年代から見て美人とか可愛いとか思えるような子も、たくさんいたと思う。それなのに不倫の噂とか、女の影といったものが一切ないのは、本人が女の誘惑というものに興味がないからだと思っていた。だから、奥さんもきっと、容姿に頓着のない、女を捨てたババアみたいなのが来るとたかをくくっていた。
「うちの旦那が、いつもお世話になってます」
女にあまり興味がなさそうな人が選ぶには、あまりにも美しすぎる女性がそこにいた。
整形で作り上げたらこうはならない、決して派手ではないが均整のとれた顔立ち、よく手入れされたツヤツヤの黒髪に、男性にも女性にもウケが良さそうな、嫌味のないデザインのネイル。ラインの出ない服装でわかりづらいが、スタイルも相当よさそうだ。聞いていた話からして、歳は30代半ばくらいのはずだが、肌の綺麗さがどう見ても20代のそれである。
それに引き換えあたしは、ボーナスをはたいて二重整形をしたが直す余地ばかりの顔、急ごしらえで美容院でプリンを直しただけの茶髪、ネイルまでは予約する時間がなく伸びかけのままのネイルに、外食続きでたるんだ腹、極めつけは、荒れ狂った食生活でできたニキビ。まずい。勝てるところがない。
……いや、まだ諦めるのは早い。どうせ永瀬さんの収入に甘んじて、時短勤務とかしてるはずだ。
「……お仕事は、何をされてるんですか?」
「全然大した仕事じゃないわよ〜」
大手商社の経理部長をしているそうだ。まずい、勝てるところがない。なんだ、大した仕事じゃないって。謙遜もほどほどにしろ。
それから彼女は、言葉尻が弱くなっていくあたしに対して何度か話を振ってくれたが、頭が真っ白になってしまって、何を話したか覚えていない。
敵情視察とか、怖いもの見たさとか、そんな軽い気持ちでここへ来たことを後悔した。敵うとか敵わないとかそういう次元じゃない。
そんなこんなで10分ほど歩いて永瀬さんの自宅に到着し、食器の準備を手伝って食卓についた。二人の他愛のない話をぼんやりとした意識の向こう側で聞いていたが、仕事の電話が来たらしく、永瀬さんは少し経ってそそくさと会社へ戻っていった。ここからが地獄の始まりと言わんばかりの状況のはずなのに、助かった、と思ってしまった。
それから、二人の馴れ初めとか、メグミさんの生い立ちだとかを聞いたり、あたしの趣味の話をしたりした。外見の美しさだけでなく、育ちのよさだとか、何から何まで敵わなかった。あたしが男で、彼女が同級生だったとしたら、高嶺の花すぎて近づけすらしなかっただろうな、と思った。ますます、どんな思惑があってこの場にあたしが招かれたのかわからなかった。
ただ一つだけ、永瀬さんが不倫などを一切しない理由が、少しわかった気がした。本当に彼女を溺愛しているのだと思う。
彼女は、愛される才能がある。学生時代のクラスに一人はいた、目を惹く容姿を持ち、男女問わず好かれていた、学生時代に確かに存在したヒエラルキーの、頂点に立つことが許された人間。そのカリスマ性が彼女にはあったのだ。自分が優れていることを知りながらも、嫌味のない態度で誰からも好かれ、その育ちのよさから、自分が愛されるべき人間であることを疑いもしない、絶対的強者。
これ以上彼女と関わるべきではないと本能が告げる。それでも、彼女と対話する時間は心地よかった。あたしの話に耳を傾け、丁度いいテンポで相槌を打ち、耳障りのいい言葉をくれる。あたしが彼女に惹かれていくのに、そう時間はかからなかった。
本当は心のどこかでわかっていたのだ。永瀬さんが面倒見がいいのは、あたしだからではなく、あたしの仕事の出来が悪いからであること。執拗に彼にアプローチをかけることで周りから疎まれ、浮いていたことも。ようするに、あたしはかまってちゃんで、気にかけてくれるのなら誰でもよかったのだ。ずっと、気づかないふりをしていた。そんなあたしの寂しさを理解して、受け入れてくれたのだ。
「明後日、仕事在宅でね。あの人出張らしいから、一人でご飯食べるの寂しくって……。アキちゃんさえ良ければ、外でランチでもどう?」
「……はい」
連絡先を交換するために携帯を開いて、昼休みの終わりが近づいていることに気付く。片付けを手伝えないことを詫びつつ、その場を後にした。
友達が少ないのよ、と、彼女は寂しげに笑っていた。きっと、その圧倒的なスペックゆえに、表向きの友人は多くとも、彼女に釣り合う、心を許せるほど近しい人間はいないのだろう。きっと永瀬さんも、世間体とかタイミングとかでお眼鏡にかなっただけで、彼女にとってはその他大勢の一人に過ぎないのでしょう。お気の毒にね。
会社に戻って、メールを流し見しながら、お茶の誘いのメッセージを打つ。また横で根暗の同期がブツクサと何か言っていたが、口頭でなくメールで送ってください、と一蹴した。近場のオシャレな喫茶店をいくつか探して、彼女に送る。
同期が何かチクったのか永瀬さんが苦言を呈しに来た。以前のあたしなら、会話するきっかけができたと大喜びしていたであろうが、今となってはどうでもいい。
「……ああそうだ、永瀬さん。メグミさんと、今度お茶してきますね」
素敵な出会いを、ありがとうございます。
愛想笑いを浮かべてみせると、彼はバツの悪そうな顔をした。愛する奥さんの関心を、あたしみたいな小娘に奪われて悔しいのかな。仕方ないよね、女同士にしかわからないものって、あるから。
うつくしい人。あなたの孤独を、あたしなら埋めてあげられます。
かわいいケーキが評判の小さな喫茶店で、あたしと秘密の話をしましょう。
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