夏休み

 夏は嫌いだ。正確にいうと、夏休みが嫌いだ。

 ジリジリとうるさい蝉の声と、学校に行かない代わりに大量に出される宿題と、へばりつくような蒸し暑さ。お盆には親戚の集まりがあって、毎年田舎の母方の実家へ行く。携帯の電波も入らないし、コンビニすら歩いて行くには遠い距離にあり、何より、どことなく居心地が悪い。

 その年は高校受験を控えていたが、無理なく受かるレベルのところを志望していたので塾や補講の予定もなく、お盆明けに友達と行くプールの約束を楽しみに早めに宿題を終わらせて、時間が過ぎ去るのをぼんやりと待つはずだった。


 玄関の壊れかけのチャイムの音が鳴る。大人たちは皆出かけていた。めんどくさいなぁと思いつつ玄関を覗くと、白いロングワンピースに薄手のカーディガンを羽織った女の人が立っていた。

 物心がついてからは毎年ここへ来ているけれど、はじめて会う人だ。たぶん年は二十代前半か半ばくらいで、家族やクラスの女子以外女の人と話すことのない僕は少し緊張して、手のひらに変な汗をかいた。

 彼女は、長い黒髪を耳にかけながら微笑む。

「こんにちは。今、ひとり?」

「なんか、みんな出かけてて。……中、入っててください」

 足元のキャリーケースを預かる。今まではたまたまタイミングが合わなかっただけか、僕が覚えていなかっただけで、親戚の誰かなんだろうと思った。

「えっと……。適当に居間とかで座っててください、お茶持ってきます」

「ありがとう」


 居間の僕の荷物を片したりお茶の準備をしている間に、父さんたちが帰ってきた。

 大人たちと話しているのが聞こえたが、ここへ来たのは随分久しぶりだったらしい。名前はエリさんといって、今年で24歳になるそうだ。第一印象では二十代前半か半ばくらいだろうと思ったが、皆と話しているところを見ると、もっと年下と言われても年上と言われても信じられる。年齢を感じさせない、なんとなく不思議な雰囲気のひとだ、と思った。


 今年はどうやら入院している母方の祖母がもう長くないらしく、大人たちが皆出払っていたり、お金についての話し合いをしていて居間を追い出されることが多かった。クーラーのない屋根裏部屋で扇風機に当たっているとエリさんが上がってきて、退屈だよね、と少し困ったように笑った。

「アイスでも買いに行こっか」

 最寄りのコンビニは歩いて行ったら40分はかかる。けれど不思議と、彼女と歩く夜道は退屈に思わなかった。往復で小一時間も歩いてアイスだけじゃなんだから、と、大量の花火を買って帰路についた。


 仏間に忍び込んでろうそくを持ち出すと、エリさんはライターを取り出してろうそくに火をつけた。

 エリさんはいつも大人たちに隠れて煙草を吸っていた。僕の同級生で煙草を吸ってるやつならともかく、24なんてもう大人なんだから隠れる必要ないのに、と思った。きっと何か喫煙者であることを知られたくない理由があったのだろう。


 色とりどりの花火をぼんやり眺めていると、線香花火を手渡された。

「勝負しよう」

「なんの?」

「最後まで火が落ちなかったほうの言うことをなんでも聞くの」

「いーよ」

 勝負なんて子供っぽいこと言うんだなぁ、と思ったけど、彼女から見たら僕も子供なわけで。

 昔は友達と線香花火が落ちなくなる裏技とかを調べてたのを思い出して試行錯誤したけど、あっけなく負けてしまった。

「ふ、これが年の功ってやつですよ」

「年関係あるかなぁ……」


 明後日になったら、都内の家に帰る。

 僕が勝ったら、帰る前に一日どこかへ出かけようと言うつもりだった。歳上の女の人が求めるものなんて想像できなくて、僕にできないようなことを言われたらどうしよう、と思った。そんな焦りを隠すように、残った花火に火をつける。

 エリさんは隣に腰掛けると、慣れた手つきで煙草に火をつけた。煙草の煙と、ほのかに香水の香りが立ちのぼる。カラフルな火花が、彼女の白い肌を照らした。


「明日、どっか出かけよう」

「え?」

 いいの?そんなことで、と、出かかった言葉を飲み込んだ。

「出かけるったって、この辺何もないよ」

「知ってるよ」

 そりゃまぁ、しばらく来てなかったとはいえ僕よりは知ってるか。きっとエリさんもこの田舎が退屈で仕方なかったんだろうと思った。


「私ね、海に行きたい」

「埼玉に海ないじゃん」

「だからだよ」

 海なんていつでも行けるだろうに、と思ったが、実を言うと僕も海へは数えるほどしか行ったことがなかったので、少し楽しみではあった。

 客間から父さんが顔を出す。

「風呂沸いてるから、先入っときなー」

「はーい」

 エリさんはニコリと愛想笑いをして、煙草の火を隠すように踏み消した。

「また明日ね」


 次の日、昼過ぎに起こされて墓参りをしたあと、鈍行を乗り継いで海へ向かった。

 電車の中で僕はほとんど寝ていて、乗り換えのたびにエリさんが起こしてくれた。最後に目を覚ましたのは名前も聞いたことがない駅で、ホームからは海がよく見えた。どれくらいの時間電車に乗っていたのかわからない。もう日が沈みかけていて、海面に夕陽のオレンジがきらきらと反射していた。駅を出て浜辺に向かうと、真夏だっていうのにひどく閑散としていた。


 波の音と潮風が心地いい。エリさんは脱いだサンダルを片手に、波打ち際を歩いた。僕も慌てて靴を脱いで追いかける。海の水の冷たさが心地良くて、沖へ吸い込まれそうになる。

 呆けている間に、エリさんはどんどん沖へ向かって歩いて行った。このまま足のつかなくなるところまで行って溺れてしまうのではないかと思った。慌てて引き止めようと手を伸ばしかけると、彼女は風に煽られた髪をゆっくりと梳かしながらこちらを振り返った。なんだか恥ずかしくなって出しかけた手を引っ込める。

 逆光で表情は見えないのに、ただ漠然と、彼女を綺麗だと思った。


「……私ね、」遠いところへ、行きたかったの。


 言葉の真意をはかりかねて僕が口をつぐむと、エリさんはこちらへ戻ってきた。

「なんてね。帰ろっか」

「…………うん」


 家に着く頃にはすっかり夜になっていた。風呂に入った後、僕は疲れですぐに爆睡してしまった。

 次の朝、エリさんは一足先にバスで帰るというので、バス停まで見送りに行った。彼女はバスに乗り込む間際にこちらを振り返ってまた来年ね、と笑ったけれど、次の年も、その次の年も、あの田舎の家で彼女と会うことはなかった。


 それから、高校、大学と順調に進学していって、僕は社会人になって実家を出た。

 毎年、夏が来ると彼女を思い出す。今思えば、あれが僕の初恋だったんだと思う。気づけば、あの時の彼女と同じ歳になってしまった。今でもあの夕暮れの浜辺の景色を鮮明に思い出せるけれど、あの浜辺が一体どこだったのかは思い出せない。

 去年の盆にあの時の花火の残りを発掘したけれど、湿気ていてもう火はつかなかった。遊びに来ていた甥っ子と花火を買って遊んでみても、やっぱり僕の線香花火はすぐに落ちてしまった。


 今年もまた、夏が来る。そろそろ彼女の一人でも連れてこいと茶化されるのを鬱陶しく思いながらも、盆にはまたあの田舎の家にいくのだろう。

 雨上がりの静かな夜道で大きく息を吸い込むと、初夏の匂いがした。

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短編 @baratabe

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