短編

@baratabe

愛の夢

 ノアという女は。

 一言でいうと、異質。住んでいる場所も、なんの仕事をしているのかも、実年齢も本当の名前すらも知らない。とにかく素性を明かさない、マジで何を考えているのかわからない女。

 真っ白な肌に手入れの行き届いた金色の髪、ミツバチを誘う花を思わせる甘い香り。夜の世界に棲む吸血鬼、あるいは、男を惑わす悪魔ファムファタールか。そういった人外モノが実在するのなら彼女のような姿をしているのだろうと思ったことがある。


 俺にはが何人もいた。昔から他人に興味を抱くことがなく、一人の相手を一途に思うことができなかった。

 ある程度顔が好みの女、一緒にいて楽な女、料理が上手い女、体の相性がいい女、等々。同時に何人もカノジョを作っては、それぞれに別の役割を持たせていた。

 浮気だと言って離れていく女もいれば、その関係に理解を示す女もいた。浮気を知ってなお関係を続けることを選んだ相手には、平等に愛情を注いだ見返りを与えた。あまり褒められた行いではないのはわかっていたが、相手も納得しているのだから特段悪いことをしているという意識もなかった。


 何人もいたカノジョの中にも漠然と本命オキニはいて、なんとなく年齢だとか世間体を気にして腰を落ち着けるのなら、相手は彼女だろうと思っていた。だが、その本命カノジョに、遂に愛想を尽かされて振られてしまったのだ。

 確かに俺はあまり褒められた行いをしてきてはいないが、俺にだって人の心がないわけではない。自分が悪いのに追い縋るなんてダサい真似はしないけれど、それなりに悲しみはする。


 別れを告げられたカフェを出て歩いていると、俺が外に出るのを見計らっていたかのように通り雨が降り出した。……ついてない一日だな。

 近場のコンビニへ傘を買いに走るか、諦めて濡れて帰ってスーツは後日クリーニングに出すか、ここでタクシーを呼ぶか。雑居ビルの下で考えを巡らせていると、ふいに甘い香りがして思わず辺りを見回した。


 一言で言うと異質。その女は、繁華街の雑踏という風景から、ひどく浮いて見えた。思わず見惚れて息を呑む。時が止まったのかとさえ思えた。

 彼女は俺の視線に気付くと、口角を少し上げるだけの微笑をして、俺に話しかけた。

「通り雨だって。一緒に雨宿りしようよ、おにーさん」

 耳の奥から脳髄をくすぐるような、甘ったるい声をしていた。



 ***



 その日は隠れ家的なバーで他愛のない話をして、雨が止んですぐ解散した。雨宿りに付き合ってくれたお礼がしたいと言われて連絡先を交換して、後日会う約束をした。


 前回と同じバーで待ち合わせる。こじゃれたカクテルを注文して、また他愛のない話をした。

 計算してやってるのか、素でやってるのかはわからないが、会話のテンポや距離感の取り方がちょうどよく、彼女との時間は心地よかった。波長が合うというのは、こういうことを言うのだろう。


 夜も更けてきた頃、ほどよく酒が回ってきた俺たちは、人通りの少なくなってきた大通りを駅と反対側のホテル街の方へ吸い込まれるように歩いていた。別れ道の手前で、どちらからともなく足を止める。

「終電、なくなっちゃったね」

 彼女は頬を少し上気させて、潤んだ瞳で俺を見つめた。つややかな唇と、襟ぐりから覗く胸の谷間に、思わず生唾を飲み込む。

 瞬間、俺の勝ちを確信した。風に煽られた彼女の髪を掬いながら囁く。

「どうしたい?この後」


 存外、こいつも簡単な女だったな、と思った。人外の悪女を思わせるほど目を惹く容姿の女が、こうも簡単に体を許そうとしていることに、心底失望した。

 そっと頬に添えた俺の手に、彼女は自身の手を添える。ここではキスをするのがセオリーだろうと思い、目を閉じながら顔を寄せると、あの甘ったるい声とかひどく不釣り合いなセリフが鼓膜を揺らした。


「本っ当、つまんない男」


 想定外の言葉に呆気に取られていると、ノアは俺の腕をすり抜けて、慣れた様子で空車のタクシーを呼び止めた。それから、乗り込む間際にこちらを一瞥して、淡々とした声で吐き捨てた。

「……っふ、間抜けな顔だね。ばいばい」

 甘ったるい香水の残り香に眩暈がした。


 彼女の乗り込んだタクシーが去った後、俺はしばらく思考がまとまらずに立ち竦んでいたが、何食わぬ顔を装ってタクシーを呼び止め、帰路に着くことにした。

「クソ、あの女……」

 絶対にあの女を、落としてやる。



 ***



 落としてやる、と思ったはいいものの。

 数日経って、彼女の予定を伺うメッセージを送るも、彼女からの返信はなかった。しばらくして仕事が忙しくなってきた頃、突然連絡が来た。

『明日時間ある?』

 踊らされている気がしないでもないが、売られた喧嘩は買う主義だ。臨むところだ、と思い返信する。

『ある』

『じゃ、20時に■■駅で』


 時間より少し遅れて待ち合わせ場所に現れた彼女は、前回のやりとりが嘘だったかのような行儀のいい愛想笑いを浮かべた。今更猫被ったって遅いだろ。

「待った?ごめんね」

「……や、全然」

 いい女は男を待たせるものだと、昔誰かに聞いた。これも計算のうちの行動なのだろうか。


 それから彼女とは何度か会ったが、体を重ねることはなかった。次で落ちなかったらもう切る、と思いながらズルズルとその関係を続けたのは、見た目の整った女を連れて歩くのは気分がよかったし、なにより、悔しいが彼女と過ごす時間をなかなかに悪くないと思っていたからだ。

 気づけば他の女で性欲を満たすことにも興味がなくなって、久しぶりに、それこそ数年ぶりに、のいない状態が続いた。男女の駆け引きというものを、心底楽しんでいたのだと思う。

 そろそろ次の段階に進む核心に触れてもいいのではないかと思い始めた頃、突然彼女からの連絡がぱったりと途絶えた。



 ***



 慌ただしい日々を送ること数ヶ月、このまま連絡がつかないのならそろそろ負けを受け入れるかと思い始めた頃。なんやかんや行きつけになってしまったあの日のバーで通り雨が止むのを待っていると、ふいに声をかけられた。


「雨宿りしてるの?おにーさん」


 声の主の方へ振り返ると、見覚えのある顔の、しかしあの頃とは印象が全く変わった女の姿があった。

 あのまばゆかった金色の髪は柔らかな栗色に染められ、緩やかに巻き下ろされている。声をかけられなければわからなかったかもしれないくらいに、印象が変わっていた。


「……ノア」

「久しぶり。隣いいかな」


 全然連絡連絡しなくてごめんね。彼氏と同棲し出してからバタバタしてて。

 別に束縛とかする人じゃないんだけど、帰り遅くなると心配するし本人遊ばない人だから、あんま気使わせるのも申し訳なくって。こうして外でお酒飲むのも久しぶりなんだよね。


 ……。まあいるか。……そりゃそうか。

 それで久しぶりに俺に声をかけてきた理由はなんなのか。自分を縛る生活に飽きたのか、彼氏ソイツとうまくいってないのか。この女が誰か一人のもとで一喜一憂するなんて、と勝手に思っていた。お前が負けを認めるなら、また少し遊んでやってもいい。

 そんなことを思いながら次の言葉を待っていると、薬指に指輪が光るのが見えた。相槌を打つ声のトーンが低くなるのが、自分でもわかった。

 俺の視線に気付くと、彼女は少し寂しそうに笑った。……いや、少し寂しそうに見えたのは、俺の願望だったのかもしれない。


「もうすぐ結婚するんだよね」


 彼女の瞳に映るのは、窓際に座る俺ではなく、窓の向こうのネオンの光だった。愛おしい誰かが来るのを待っているようだった。


「……そっか。おめでとう」

 思ってもない言葉をやっとの思いで捻り出す。


「ありがとう」


 彼女は行儀のいい愛想笑いをすると、迎えが来たと言って、自分の分の会計を置いて店を出た。電話をとった彼女が席を立つ間際、受話器越しにかすかに聞こえた男の声は、俺の知らない名前を呼んでいた。

 嗅ぎ慣れたあの甘い香水ランテルディの香りだけが残って、グラスの氷がカランと音を立てた。


 あの日人外の悪女を思わせた彼女の面影は、もうなかった。俺の記憶の中でのは、のだと思った。

 愛おしそうに男の話をするノアは、なんのことない、平凡な人間フツーの女の子だった。彼女が人外の悪女なんかじゃなかったことに安堵したと同時に、落胆した。

 いつか彼女が俺をつまらない男だと笑ったことを思い出す。お前こそつまらない女になったと鼻で笑ってやりたかったが、彼女が結婚すると知った今、俺が何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかならないと思い口を噤んだ。

 その後、未練がましく彼女の連絡先を携帯に残し続けていたが、彼女から俺に連絡が来ることは二度となかった。



 ***



 それから数年が経った。

 顔や背格好が似ている女、雰囲気が似ている女、話す声のトーンが似ている女、同じ香水を使う女。彼女の面影を追いかけて何人もの女と関係を持っても、満たされることはなかった。

 プライドなんてちっぽけなもののために意地を張っている間に全て手遅れになっていたことに、今更気づいた。……そもそも、俺がどうやってこいつを籠絡するかと躍起になっていたことすら結局俺の一人相撲に過ぎず、はじめから俺の存在は彼女の眼中になかったのかもしれない。


 あの日と同じ雨の中、もう誰かを待って雨宿りをするなんてことはせず、歩きなれた繁華街の道を駅に向かって歩く。

 ふと、あの頃の彼女の香水と同じ香りを感じて思わず振り返った。ヒトの記憶に一番最後まで残るのは匂いだと、誰かが言っていたことを思い出す。香りの主を探したが、その後ろ姿はとっくに雑踏に紛れて見えなくなっていた。


 雨のネオン街で見た夢は、続きを見ることも、忘れることも叶わない。これは呪いで、誰にも向き合うことなく自分の気持ちも他人の気持ちも利用し続けた俺への、罰なのだろうと思った。

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