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 人気があるといっても、からくり座の狭いテントに入れる観客の数は限られている。オペラ座のようにはいかない。客層も、小さい子供から若者、老人までさまざまで、ビールを飲んで騒々しい客もいれば静かに舞台に集中している客もいた。

 ヤンは思い切って一日二回から三回へ上演回数を増やした。昼と夜と深夜の三回だ。親子連れと紳士的な大人と酔客とを切り離して、それぞれに楽しんでもらおうという建前で、売り上げを伸ばした。深夜は入場料を上げテントの中でビールを売って、外で飲んでから観に来た客たちに、ビール代も払ってもらうことに成功した。売り上げは倍増し、ヤンはご満悦だ。

 それは一方で人形の稼働率の上昇を意味し、修理屋からしつこく文句を言われた。他の人形に合わせて、踊りの難易度は下げているから問題ないとトマーシュは宥めたが、じっさい、ココンの繊細な機械は壊れがちで毎晩のように何か直していたし、クリードラも可動部分の疲労がひどく部品の交換頻度が上がった。特にココンは、自律動作を「ほどほどにする」ような設計ではないのだ。

 毎日毎晩の上演に付き合って、修理屋は人形たちの面倒をみている。ジョルジュの製作したココンとクリードラだけでなく、他の自動人形の調整も手がけていた。どこの工房からも、毎日からくり座に出向いてくれるものはいなかったし、仮に来てもらっても、他所を知るヤンに言わせれば、腕がいちばん確かなのは彼だった。

 修理屋のほうでも、他の工房の人形を中身まで触れるいい機会だと、積極的に手を出してきた。

 上演中は客席の端で舞台の上の人形を見守っている。同時に、客席の様子も観察していた。

「近頃、荒れてるお客が増えてますね」

 修理屋に言われるまでもなく、トマーシュもそれは気づいていた。だから、上演回数を増やして、柄の悪い連中を深夜に誘導するヤンの案にも従ったのだ。日曜日の昼なんかに、子供たちもいるところで暴れられたら敵わない。

 しかし、それが裏目に出たのだろうか。深夜上演には、幕が上がるのを待ち兼ねて奇声を上げたり、上演中も人形に向かって声援を送ったりしている連中が増えてきた。金払いは悪くない。ビールの飲み代分だけ売り上げも高いし、花束を投げてくるものもいる。その一方で、

「どうも、嫌いなのに見に来ているのが、いるようなんだよな」

 というのが、トマーシュの観察結果だった。ブーイング目的で来る客がつくようなら大したものよと女優は感心していたが、ここに来る観客は、人間の男女を目当てに見に来ているわけではないのだ。

 からくり座の成功に悪感情を抱く同業者というわけでも無いようだ。多少の妬み僻みは聞いているとヤンも言っていたが、悪意からの具体的な行動があれば彼の人脈の情報網の中で、すぐ分かるとも言っている。

 失業者が増えていることやラッダイトの影響もあるかもしれないが、それで機械だからと自動人形を敵視して文句を言ってくるというのも筋違いだろう。観客が何を考えているのか今一つ分からず、トマーシュとしては大人しい客が増えることを、期待するだけだった。


 からくり座のテントから少し離れた小さな教会が隣接する広場に、修理屋はココンを運び出してきていた。女優に頼まれたら、断るわけにはいかない。プラハに留まっている理由の半分は彼女だ。陽が落ちるにはまだ時間があるし、今日は休みで上演はない。

 眼鏡を掛けたココンのスイッチを入れて、外の世界を見せる。女優は周りのものを指差して、ひとつひとつ語りかけて教えていく。

 教会、木、花、大人、子供、空、雲、そして、太陽。

 ココンは眼鏡をかけた顔を、女優の指す方向に向けてゆっくりと動かしてゆく。言葉を理解できていると信じているのか、女優は優しい目でココンを見つめている。理解できているのか、修理屋は分からない。

「この子、ここで歩かせられる?」

 草と土の上。ほとんど平らな地面。舞台の上とは異なるが問題ない。修理屋はココンを地面に立たせる。靴を履いた足が、一歩一歩、土の上を進む。十歩ほど離れていったところで戻れと声をかけて——声で動作を命じれば、その通りに反応する——回れ右をして、今度はスキップで戻ってくるのを、見守った。

「ココンもクリードラも、動きが向上してる」

「ジョルジュが出来のいい部品を作って交換してるんで。最初の公演の時からは、ほとんど中身は入れ替わっているんですよ。それに、トマーシュの振り付けを学習しているんで。吸収が早い。よその工房の人形も見てますけど、ぜんぜん違う」

「そのくせ、動くのは一度に三分って守らせてるわね。本当は、どれだけ一人で動けるの」

 修理屋は本当のことを話してよいか躊躇した。

「ヤンには黙ってるわよ。教えて」

「トマーシュの激しい振り付けで何分も動かすなんて、とても許可できないですよ。どんどん、難易度上げてくるし。毎日、壊れないかひやひやです」

「激しくなかったら……」

 声をひそめて、修理屋は白状した。

「おそらく、丸一日は動けますね」

「この子も女優だし、演技を教えたり、一日じゅう一緒だったらいろいろ……話ができるようにはならないの?」

「ジョルジュだって何でも作れるわけじゃありません。それにココンは口がないし」

「あら、口があれば話せるって言ってる」

 女優は微笑んで修理屋を見つめる。どこまで本気か分からない。人形に何を期待しているんですかと訊ねた。

「私の舞台に上ったら、面白いと思わない? 糸なんかで操られていないあの子と、並んだら楽しそう」

 そこに遠くで遊んでいた子どもが三人、駆け寄ってきた。女の子ふたりと男の子。後ろから母親もついてくる。

「ねえ、なんで顔がないの?」

「知ってる、人形劇の子だ!」

「顔は悪い錬金術師に盗られたの? 取り返しにいかないの?」

「みんな、からくり座を見にきたことあるのね。こんど、顔を取り返しにいく話を演るらしいわよ」

 女優は、話を作って子供たちを楽しませる。勝手に話を作ってくれるなと思ったが、困るのはヤンとトマーシュだ。訂正することもないだろう。

 母親たちが追いついて来て、子供を引き剥がす。化粧っ気のない顔に着古した服の女たち。こっちを見る目が、どうも怖い。自分たちとは何も言葉を交わさず去っていく。

「睨まれてましたね」

「わたしじゃない、ココンよ。この子の踊りを見てればね、そういう気持ちも生まれる」

「人形ですよ」

「今度の上演では、壊れないか心配ばかりしてないで、ココンをちゃんと見てなさい。ただの人形なんて、見てる人はそんなふうには思ってない。必死に生きようとして足掻いてる姿の輝き。わずかな時間で動かなくなる儚さ。それでいて顔のない、何ものでもない存在。でも、たしかに、間違いなくただの人形、機械仕掛け。

 惹かれて夢中になるか。敵意をむき出しにして、正体を見せろ、おとなしく人形でいろと嫌うか。操り人形マリオネットの造形も魅力的、後ろで動くようになったよその自動人形オートマタの演技も魅力的、クリードラの演技はもっと魅力的、でもココンは特別よ。あなた、ジョルジュ、トマーシュ、ヤン、皆で作って育てたくせに、誰も、何を作ったのか気づいてない」

 修理屋にとっては、人形は自らが修理する精巧な機械にすぎなかった。魂があるもののように愛したり憎んだりする気持ちが分からないわけではないが、内部の機構を知っている彼には、持ち得ない感情であった。

「探しましたよ。そろそろテントに戻ってもらえませんか」

 後ろから声をかけてきたのは、トマーシュだ。話を聞いていたのだろう、女優に問いかける。

「それでは、あなたはココンが何だと思っているのですか」

「さあ。それはココンが決めればいいじゃない? わたしからも訊いてもいいかしら。あなたはなぜ人形たちにいつも激しい踊りを振り付けるの? あなた自身が表現したいものは何?」

「私の表現なんて、大げさですね。私は、ヤンの台本と人形たちの存在感の中から、自分にできる最善の演出を考えて、人形の魅力を引き出そうとしているだけです。この子たちのために黒子に徹したいと思ってますよ」

「自分の野心を素直に見せないのね、ヤンと同じ。彼も、人形に合わせて台本を書いてるだけなんて嘯いてた」


 トマーシュは嘯いてるつもりはなく、本心から答えたつもりだった。個人的な野心なんかでできるものではないと思っている。人形の与えてくれるインスピレーションに応えるだけで精一杯だ。

 新作の人形劇と、演出を変えた一作目を日替わりで上演することになって、忙しさは増した。とくに一作目の再演だ。

 新しい演出では、ココンを追い詰める人形の中にも操り糸を切って自律動作に切り替えるものが複数いて、動き回って襲いかかる。その相手から逃げるココンも操り糸を切って逃げ回る。一回の上演でココンとクリードラが動き回る時間は三倍に増やした。修理屋のクレームは遮った。今でも厳しく言ってくる時間制限は、けっこう余裕を持たせていると見ていたし、改良を加えているのだから強度も上がっているはずだと考えていた。

 修理屋は上演のたびに——つまり一日に三度——全ての自動人形を整備した。上演の間は休みなしだし、深夜の上演の後も帰れない。だいたい、いちばん激しい動きになるのは深夜の回だ。観客の興奮が操演者にも、声の役者にも、そして妄想かもしれないが——人形たちにも乗り移っている。歓声、ブーイング。


 幕が上がると、劇本番の開始前に、日替わりで自動人形に挨拶させる。今回から動かしている五体のうち二体づつが上がる。きれいな顔と揃いの衣装。からくり人形らしく、ぎこちなく、ゆっくりと、しかし可愛らしさは損ねずに動かすことで、親しみと安心感を観客に与える。

 ココンは挨拶には使わない。クリードラもだ。その特別扱いが人気と反感の両方につながる。どれだけ反感を持つ観客やほかの人形を好む観客がいたところで、主役がいて脇役がいるのが劇というものだ。引き立つように演出しているのだから、主役が目立つのは、当然だ。

 何と言っても、自律動作の動きの差が激しかった。挨拶のぎこちなさは演出でも、最大限に動かした時でもココンに比べたら緩慢な動作で、まったく敵わない。修理屋はよその工房で作られた人形も手を抜かずに調整していたが、どれも故障がちだったり、動きが一歩も二歩も遅かったりして、改良が続けられているジョルジュの人形との差はむしろ開いていった。

   「あなたは誰ですか。私は王女、私は伯爵令嬢、俺は労働者、俺は軍人、

   俺は風来坊の旅芸人、わたしは歌姫、ボクは学校で勉強している子供。

   「あなたは誰ですか」

 顔のないココンは答えられない。

 人形劇の役としてのココンが、ココンそのものだとトマーシュは思う。ヤンもそのつもりで台本を書いているはずだ。上から操っている時も、動きを学習させる時も、自分の操演技術とか踊り手としての技術とか、自己主張の入る余地はない。すべて、ココンをココンを表現するためだ。


   「お前の顔を作ってやろう。その娘の心臓を寄越せ!」


 杖や、剣や、斧を持った人形が襲いかかる。先に操り糸を切られて自由に動き回る人形たちから、トマーシュと相方のベテランが操るココンとクリードラは逃げ回る。操り人形も混ざった大混戦だ。操演の腕はたしかなからくり座の面々でも、自動人形の動きの予想がつかない。操り糸を切ってからもココンとクリードラは周りを的確に避けているから、その点では心配ないが、追いかけてくる五体が周りとぶつかる。こうしたアクシデントが故障につながる。

 やがて修理屋も匙を投げて、修復を諦める人形が出てきた。

 二体の調整だけでも時間が掛かるようになってきている。他の人形を部品から調達し直す、作り直すとなったら、もう人形工房で新品を探す方が早い。

 瞬く間に四体の自動人形を廃棄することになった。

 深夜の上演には、人形劇というより、個々の人形を気に入って観に来ている客も増えていて、廃棄された人形を気に入っていた客もいた。そうした連中は、ココンとクリードラに罵声を浴びせるたびにやって来るようになり、ビールを何杯も飲んでは、騒いでいた。

 自動人形の補充が必要だ。ヤンはボヘミア内外の工房を訪ねて、見た目と動作と耐久性の良さそうなのを人形を探しては買い付けてきた。

 ジョルジュの自動人形の成功で、これが商売になると後追いを始めた工房がいくつもあった。肝心のジョルジュ自身は、新作を見せることもなく、訪ねた時にココンやクリードラと並んでいた人形を売ることもなく、沈黙していた。ほかの人形劇団へ売らないでいてくれるのは幸いだ。

 もっとも、ただ一人の助手だった修理屋がからくり座の専属になっていたら、他所は手出しができない。出来がいいから転倒や衝突で壊れることがないだけで、ジョルジュの自動人形は、他よりも繊細な精密機械だ。

 追加補充の人形は九体を数えた。トマーシュが学習させて自律動作させようとするが、すぐには難しい。前の五体だって、最初の上演ではずっと操り人形として使ってきたのだ。無理なことをすれば、すぐに壊れるだろうし、まわりの操り人形も壊しかねない。

 自動人形については、当面はココンとクリードラと、まだ動いているもう一体に頼ることにした。

 様々に趣向を凝らしても、動く人形の数を増やしても、つまるところ人気があるのは顔の無い人形、ココンなのだった。

 クリードラの激しさの中に柔らかさのある踊りも、残った一体も評判になっていた。それでも、ココンの動きは観客の誰にとっても、特別だった。


 クリードラが両手をひろげて、テントの向こうにある空が見えているように顔を上げる。

   「空を飛べばいいと思う、鳥のように。私は自由、翼あるもの。

   どこへでもいける!

 そしてココンに向き合って優しく語る。

   「ココンも一緒に飛ぼう!」

 人形の動きと声の演技が一致して、見るものはクリードラが生きていて、自ら声を発しているように感じる。

 クリードラの誘いにココンが応える。

   「鳥って何? 見たことない!」

 しかし、今までの無知、孤独、絶望。 

   「ああ、そういえば私は空を見上げたことも無かった」

 手を振り上げて、ゆっくりと舞う。

 静まり返った客席。観客は、息を潜めて人形の儚い動作を見つめる。


「自分で動いている時のほうが、操られているように見える」

 終演後、女優が感想を述べた。ヤンはさすが見方が違うと応じ、トマーシュはそう言ってもらえると報われると返した。そう意図を込めて、演技をつけているのだから。

「感心してるけど、ヤン、あなたに操られているって言ってるの。つまり、あなたの台本に支配されて、トマーシュの演出も修理屋さんの調整もその上に乗っかってる。そしてココンも」

「いやいや、この子が操られているとすれば、それはもっと根源的なもの――そうだな、人形であることそのものに操られているのだよ」

「難しいこと言うのね。つまり、ジョルジュさんの設計のとおりに動作しているだけだと言いたいの?」

「人形劇の人形であることを超えて動き出したら、舞台から降りて、テントの外に出て行くだろうな」

「そうなったら魅力的ね」

 修理屋は彼女の顔を見る余裕もなくココンの手入れをしながら、独り言を呟いた。

「孤独ですよね。どれだけ語られていても、この子は自分の言葉を返すことはできない。言葉なんて持ってませんからね」

 ココンは眼鏡をかけた顔を、女優とヤンたちの方向に向けてゆっくりと動かす。


 深夜上演は午前一時三十分からで、ほとんど酔っぱらいの男たちと夜の女たちを相手にした上演になる。からくり座の団員は客の扱いにもすっかり慣れ、ビールの勢いで大声をあげる連中も、常連が増えれば野蛮さの中にマナーが出来上がっていた。

 劇の前に、二体の挨拶に代えて、ココンとクリードラによる踊りを披露するようにした。伴奏は、修理屋がギターを志願していた。

 スペイン風の調べに合わせて、二体が踊る。もちろん、操り糸はない。フラメンコの踊り子をまねた深紅の衣装で、くるりと旋回してみせると、ふわりとスカートが浮いて一瞬裏地が見える。男たちは大歓声だ。プラハで、いやヨーロッパ中でもここでしか見られない、自動人形による誤魔化しなしの踊りだ。圧倒的な声援と、数少ないがひときわ目立つブーイングがおくられる。

 いったん幕を下ろし、ふたたび上がると劇の本番だ。シンバルと太鼓の音が響く。人形劇としては異例に派手な伴奏をつけるため、何人もの演奏者を呼んでいるのだ。打楽器の派手な音響に、ギターに替えて蛇腹式の楽器を持った修理屋の演奏がかぶさっていく。新しいものには目が無い。最近ドイツで開発されたバンドネオンという楽器だ。

 打楽器とバンドネオンのアンサンブルが不穏な響きを奏で、暗い街の中にココンが登場する。

   「あなたは誰ですか。私は王女、私は伯爵令嬢、俺は労働者、俺は軍人、

   俺は風来坊の旅芸人、わたしは歌姫、ボクは学校で勉強している子供」

   「お前は誰だお前は誰だお前は誰だお前は誰だ?」

 ココンとクリードラを取り囲んだ人形たちが一斉に叫ぶ。その輪の中から逃げ出そうともがく。舞台の上で人形が群れる混乱のタイミングで、操り糸を外す。ここからはココンとクリードラに記憶させた動作に任せる。隙間からクリードラが抜け出し、あとを追って、別の隙間からココンも出てくる。舞台の一番前で並ぶ二体に向かって、錬金術師の声が響く。

   「お前の顔を作ってやろう。その娘の心臓を寄越せ!」

 杖や、剣や、斧や、そして猟銃を持った市民が襲いかかる。舞台を、右へ左へと逃げ回る二体を、ほかの人形たちが追いかける。猟銃を持った人形が、銃を構えた。

 銃声。

 撃たれたクリードラが倒れる。テント後方に控えていたヤンが銃を持って、天井に向けている。もちろん空砲だが、テントの中で使うには危うい仕掛けだ。

 もう一発。

 ココンが隣に倒れた。舞台の板にゴツンと重い音で。左肩が壊れたかもしれない。

 右腕で身体を支えて起き上がろうとして、今度は、そのまま舞台の前に落下した。

 静寂。客席が静まり返る。トマーシュも修理屋も動けない。予定外のアクシデントだ。

 一呼吸置いて、叫び声が響いた。その声が引き金になった。

 男が一人飛び出してきて、舞台から落ちたココンに近づこうとする。横にいた男も後ろの列に座っていた男たちも後に続く。劇団の人間が横から駆け寄って、ココンを守ろうとするが、最初に飛び出した男が覆いかぶさって、抱きかかえた。

 後方の席の男女も大騒ぎだ。舞台に近づこうとする者、押し倒される者、逃げようとする者が一斉に動き出す。

 ココンに覆いかぶさった男は、上にのしかかって来た他の男たちを振りほどいて、動かなくなったココンを抱いたままテントの外に逃げようとする。追いすがる連中に向けて、ナイフを取り出した。男から離れ逃げようとする周りの連中が、振り回される刃で流血する。

 銃声。今度は客席からだ。本物だった。

 銃弾は照明のガス燈を撃ち抜いた。火が、テントに燃え移った。

 トマーシュは、劇を中断して他の操演者とともに舞台の上の人形を裏手に引き上げた。火が上がったのを見て、ここに置いていてはまずいと判断する。裏側は、人形や舞台美術の小道具大道具が整理されている。持てるだけのものは持ち出して逃げたい。銃を持ったままのヤンがやって来た。素早く指示を出す。

「何よりも消火だ。消火と客の誘導に手分けして当たれ。舞台と人形の安全確保も頼む、できるだけ、外へ持ち出してくれ。人形も舞台美術も、それから今日の売り上げも財産は守り抜いて、しかし客もからくり座の人間も一人の犠牲も出すな。トマーシュはココンを探しに行ってくれ」

 劇団員はそれぞれの役割分担で動く。声をあてていた女たちは舞台の裏へ逃がされ、客席から見ていた修理屋と女優もそちらへ回る。修羅場慣れしている。

 客席には、炎を物ともせずに暴徒と化したのが何人かいた。炎の中、暴れる男たちと喧嘩になった他の客と、体の大きい劇団員が一緒になって押さえにかかる。

 トマーシュは、ココンを手に入れた男がテントの外に脱出したところで追いついた。右手ににナイフを握り、左手でココンを抱える。俺のものだと呟く男の目は血走っていて、うかつに踏み込めない。

 そこに、男の背後からギターを持った修理屋が近づく。静かに男が気づくより早く背後に迫り、ギターを振り上げた。頭を打って膝をついた男から、トマーシュがココンを取り返した。修理屋は右手を踏みつけるとナイフを奪う。背中を蹴り倒して、その場をさる。

 二人は、人形を持って出て来た他の劇団員とテントの裏手で合流した。炎を消し止めるのはまだ上手くいっていない。

 テントの外には、馬車の荷台を横付けしてある。最近は動かしていないので、馬はいない。荷台に人形を積んで、テントの中に戻る。まだ残っている人形や機材をできるだけ引き上げる。荷台のまわりに残った者が、火が燃え移らないように守る。幸い、裏手への火の回りは遅い。積めるだけ積んだら、人力で押して逃げ出した。

 ヤンと女優の指示に従って、荷台は深夜の市街を移動し、橋を渡った。

「向こう岸ですか」ヤンの指示にトマーシュが緊張して訊ねる。城のある対岸は、ドイツ人お支配層や金持ちの邸宅が並ぶ。

「わたしの家よ。財産になりそうなものは、一旦ぜんぶ隠しておいたほうがいいでしょ」

 からくり座の、ほぼ全財産を積んだ荷台は、女優の邸宅へ向かった。

 テントは燃え落ちてしまった。明け方、ヤンとトマーシュ、それに修理屋が戻った時には、柱しか残っていなかった。

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