第十話

 ____まだ秋花と出会う遥か昔、私、烏水は僧正坊を裏切ったことがあった。


 私には、一人の妹がいた。

 天狗で女鴉が生まれる確率は低く、希少性は高いはずなのだが、男社会の天狗界では立場は弱く、金銭を持つ事は愚か、一人で出歩くことさえ禁じ、自由を制限されていた。そして、そのほとんどが子孫を残す為だけの道具として肩身の狭い生を歩んで終わるのが摂理だった。

 しかし、結香だけは違った。

 腹の中でどんな遺伝子爆発が起こったのか知り得ないが、私の妹は誰の手にも負えないほどわがままな娘に育った。


『兄者、聞いて! 四郎ったら酷いのよ! 新しい帯を買ってってお願いしたら嫌だって言うのよ!』

『結香、四郎は何も悪くないよ。大金叩いて四郎が結香に帯を買う義理なんてどこにもないじゃないか。それに帯はこの間新しい物を私が買ってあげたじゃないか』

『柄が違うの! 女がお金を持つのがはしたないって言うなら男が女の欲しい物を買うのが義理でしょ!』


 口を開けば他の天狗達に聞かせられないような言葉しか出てこない。自由が制限される生活を強いられているとは言え、他の女鴉と比べてみると結香の忍耐力のなさは一目瞭然だった。


『大体、この私が貢がせてあげるって言ってるんだから拝み感謝するのが当然でしょ!』

『頼むからそれ以上御殿内での私の肩身が狭くなるようなことをしないでおくれ』

『肩身を狭くする要素が一体どこにあるのよ』

『原因はお前ー! ホント自覚して?!』


 プライドが高くて自信持ちで、周囲の天狗を引っ掻き回す非常にわがままで手を焼く娘だ。


 でも、不思議なことに、私が彼女が言うわがままを間違っていると思ったことは一度もない。

 言い方こそ問題であるが、先の発言とて本質こそ結香が言うことに一理あった。

 女に生まれたという理由だけで自由に制限がかかる。健康な体、健康な心を持ち、いくら働いたとて簪一本ですら自由に使える金はない。

 彼女達に制限を課しているのは、間違いなく男の天狗だ。ならば、その制限を課した部分の自由の補償を男達が担うべきなのは、当然の義務であるはずだ。

 元々妹に甘いと自覚してはいるが、彼女のわがままを受け入れ続けているのは、この世の不条理に意を唱えることに、私が密かに賛同していたからだと思う。


 しばらく時が経ち、平々凡々な不満な日々が過ぎたある日のこと。

 彼女のわがままが高じたのか、突然こんなことを言い始めた。


『私、天狗を抜けたい』


 当然、足抜けは僧正坊への背信行為そのもの。叶えられるどころか、叶えてはいけない望みだった。

 わがままな子とは言え、結香が絶対に越えてはならない境界の分別がついていない子でないはずだった。

 最近、近く開催する紅葉の宴の準備で構ってやれなかったから、自分の気を引こうと行き過ぎた冗談を言っているのだと思った。現に今も妹と二人一間の自室に仕事を持ち込んでいる状況だ。

 一先ず作業の手を止めて、私は一旦、彼女と向き合って話を聞くことにした。


『今度はどうしたの?』

『たぴおかを飲んでみたいの』

『はあ?!』


 突拍子もなく真剣な眼差しで馬鹿げたことを言うものだから、思わず拍子抜けになってしまった。

 しかし、正直どこか安堵している部分もあった。いつもとは違う真剣な雰囲気で「辞めたい」などと言うものだから「なんだ、いつものわがままか」と。


『分かったよ。今は冬入り前の紅葉の宴の準備で御殿内は忙しいから、出掛けるのは宴が終わってからね』

『今がいい』

『はいはい。今度連れて行ってあげるから』

『去年神議に来ていた神が食べたと言っていた、個数限定のくれーぷも食べたいの。オシャレだって、規定の裾柄だけの地味な着物じゃなくてもっと派手な物を着たい。贅沢してちょっと高い小物だって欲しいし、化粧も花魁の様に目尻に紅を入れて、誰の手も届かないような大人な女になりたいの!』


 やっぱり、いつもの結香……じゃない。言ってることこそ普段のわがままとそう変わりないが、こんな切羽詰まったようなねだり方なんて、一度もされたことがなかった。


『結香……? どうしたの』

『……恋がしたい。周りの目を気にすることなく好きな人だけを見て、恋をして、結ばれて、愛し合って、子どもを産んで私の家族を作りたい。そして兄者にも、私と大切な人の子どもを抱いて欲しい』


 ここでようやく、結香の様子のおかしさの理由を察した気がした。

 目線が合わない。要望の仕方だって、固執する割には、まるで心ここに在らずのようで本心から求めているようには感じられない。それに、彼女の要求は段々と物への固執ではなく、自分が求める理想像を述べていることに気づいた。


『結香。兄者に正直に言って。何があったの?』


 結香の顔を上げさせ、初めて目線が合った。その時、抑えていたものが弾けんばかりに、結香は大粒の涙を流しながら、震える声で言った。


『……僧正坊の愛妾に選ばれた』


 背筋が痺れた感覚に陥り、指先が震えた。頭が真っ白になって、咄嗟に言葉が出てこない。自分がちゃんと息ができているかどうかさえ分からないほど、混乱したのを覚えている。

 目の前の光景が夢現で、現実じゃないのではないかと錯覚する。そして、抗っても無駄だと分かっておきながら、抗いたくなってしまう。


 これがまさに、絶望に叩き落とされた瞬間だった。


『兄者ぁ……』


 結香が泣きじゃくるのも無理はなかった。


 『愛妾』とは名ばかりの性奴隷。

 僧正坊の正妻は既に他界。正妻が存命だった時にも2人の妾がいたが、正妻が亡くなって以降の数はゆうに150を超える。そして、その150人の女鴉達が全員生きているかどうかは、誰も知り得ない。

 彼の妾になったが最後、所有物である彼女達は奴隷部屋で徹底管理をされながら一生を終え、二度と外に出る事は許されない。言い換えれば、外から彼女達の生死の確認をする術はない。


『行こう、一緒に。今すぐに』


 背信行為とか、バレたらとか、「できる・出来ない」「しない・やらない」よりも先に、逃げることしか念頭になかった。頭より先に身体が勝手に動いて、一点集中で逃げ切ることだけを考えた。

 かわいい妹の未来を守らなければならないと、一度義務感を抱いてしまえば、少し冷静に考えることができている気がした。余計なことを考える無駄がなくなって、吹っ切れた感覚さえあった。


 _______自分にもここから逃げられる理由ができたからだ。

 家族を養うために、忠誠を誓う価値もない老体に頭を垂れ、顔色を窺う日々から逃げられる。自分の身勝手な理由で、家族を困らせる必要がなくなった。




「私は今が十分幸せだよ。大罪を犯した身分で羽を詰まれずに、今こうして秋花と飛べていることが何よりも嬉しい」

「私も、兄者といる時間がここに来た時の一番の楽しみです」

「両想いなようで安心したよ」


 彼の本心は分からない。でも、何となくこれ以上踏み込んで欲しくないような気もして、秋花はそれ以上は何も言わなかった。


「そういえば、髪のそれ、まだ使っているのか」


 秋花が髪留めとして使っているこの布の切れ端は、昔烏水からもらった、当時彼が着ていた着物を裂いた物だった。


「ええ。こっちに来る時だけ」

「ただの布の切れ端だ。秋花も年頃なのだから、新しい物を買ってあげるよ」

「これがいい。兄者との大切な思い出の一部ですから」

「思い出っていうほど時間は経っていないだろ? でも、人間と関わったからかなぁ。秋花と出会ってから、私も懐かしいと思う瞬間が増えた気がするよ。少し前までいつの間にか死んでいるんじゃないかと目を離すのが怖かったのに、今ではすっかり一人前に百足と戦えて」

「兄者のおかげ」

「秋花ががんばったからだよ。私の中の秋花はまだ反撃の概念がなかった頃で止まってるよ」

「あれは刃が悪い」

「無駄に疲れたくないって同じ理由で意図的に真似してたのは秋花じゃん」

「私は刃のサボりとは違って体が小さいが故の戦略です。むしろ幼子の分際で、体力温存を考慮した戦い方をしていたことを評価するべきです」

「生意気なところだけは出会った時から変わってないね、ホント……」


 肩を震わせ、ブフッと吹き出し笑う烏水。


「ホント、性根が変わっていないな!」

「そんなに笑わなくても」

「いやぁ、ちょっと嬉しくて。置いてけぼり感が消えて安心するよ」

「もしかして馬鹿にしてます?」


 笑い続ける烏水に、少し不満気に秋花は言った。


「古から新へ移り行く不安と同じように、古に一人固執し続けることにも不安が募るもの。しかし、それを誰かと共有していると知った時、不思議と取り残された孤独感は一瞬にして消え去る。思い出は、形を成さない絆なのかもしれないね」

「ん?」

「まだ大人じゃない秋花には分からないか」

「だから、もっと分かりやすく教えて下さい!」


 『楽になりたい』

 そう願う日々の中で思わず溢れる烏水の笑みは、地上に降り立つまで絶えることはなかった。

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