第九話

 _____ああ……楽になりたい。



 緊迫した会議の後、烏水はいつも鬱蒼としていた。

 側近である以上、僧正坊の言うことには逆らえない。その一方で、太郎坊である以上、他の天狗達を守って行かなければならない。

 この天狗の世において、烏水だけが孤独だった。


「兄者?」

「!」


『兄者』

僧正坊の最側近になって以来、誰も呼ばなくなった呼び名。しかし1人だけ、変わらず彼をそう呼び続ける懐かしい存在がいた。


「兄者」

「ハハッ! 秋花か?!」


 仮面を付け、体格も佇まいも声も最後に会った2年前と随分変わっていたにも関わらず、烏水はすぐに誰だか分かった。思わず笑みが溢れてしまうほど感情が心揺れたのは実に久方振りだった。


「おいで!」


 両手を広げ迎入れる烏水の胸に、秋花は躊躇わず飛び込んだ。

 百足の返り血を浴び、服が血で重たくなって血生臭い不格好さであったが、遠慮はなかった。


 2人が初めて会ったのは8年前。僧正坊から依頼された仕事で天狗界に来ていた時、秋花がまだ幼く、刀を扱い始めて間もない頃のことだった。

 その頃はまだ、幹部の下っ端の立場にあった烏水であり、客人である秋花達の滞在中の世話役を担っていた。そしてその間、烏水が仕事の合間を縫って秋花の刀の稽古を付けて可愛がり、彼女も彼を慕っていた。


「兄者、お久しぶりです」

「ついこの間……と言っても人間とは時間感覚が異なるのであったな。2年しか経っていないのにまた大きくなったか? 声も変えて、一瞬誰だか分からず驚いたぞ」

「人間だと普通です」

「でも4年前の成長に比べれば大した程ではなくなったな」

「それも普通です」


 天狗と人間では時間の流れが違う。天狗にとっての2年前は人間で言う2時間前と同じ感覚だ。それ故にいつも秋花との会話には時間感覚のズレが生じる。


「こんな所で何をしていたのですか? 珍しい」

「いや、特に用はなくて……ぼーっとしてたらいつの間にか。まあそのお陰で今年も秋花に会えたから良かった」


 いつの間にかサザエ回廊のところまで来てしまっていた事に烏水は今気づいた。常に僧正坊の側で仕えているため、彼が外へ行こうとしない限り、ここまで足を運ぶ事はあまりない。歳のせいもあってか、僧正坊が外へ出ようとする事は滅多にないため、必然的に烏水も外に近いこの回廊には足が遠くなっていたのだ。


「仕事は?」

「今日はもう終わりです」

「ふむ……少しなら大丈夫か。時間ある?」

「ええ」

「久しぶりに散歩しに行くか」

「行く!」


 烏水の誘いに少し食い気味になりながら答えた。

 まだ烏水が僧正坊の側近になる前、他の妖や天狗達の目を盗んでは二人で空の散歩に行くことがあった。

 人の世とは違い、天狗の世は木々しかなく空も基本は曇天である。晴れるのは年に数える程度、雨は降らず冬に雪が降るぐらいの天候の変化しかない。自然鮮やかではないため、お世辞にも景色の美しさなんてものはないが、積もり積もった他愛ない話をしながら二人だけの時間を過ごすこの散歩が、秋花は大好きだった。

 秘密で散歩に行っていたのは、「背中に乗って空を飛ぶのは危ない」と菫が幼い秋花に再三注意していたためである。しかし、一度だけ約束を破ったことがバレて、二人とも大目玉を食らったことがあった。

 今は秋花が成長したことに加え、烏水が側近となって忙しくなったことも伴って、徐々に秘密の散歩をする機会は減っていた。


「こんなに羽を伸ばして飛んだのは久しぶりだ」


 嬉しそうに呟いて、秋花が背中に乗っていることに構うことなく、烏水は自分の我がままに自由に飛んだ。気を抜けば振り落とされそうな飛行スピードであったため、秋花は烏水の首に腕を回してしっかりと捕まっていた。


「今年の僧正坊様はどうですか?」

「相変わらずの暴君だよ」


 秋花の問いかけに烏水は困ったように笑いながら答えた。


「でしょうね。菫から聞きましたよ。私を引き合いに出そうとしたそうですね」

「菫達は頑張ってたよ。立場上、私は何も言えないからすごくもどかしかったな」

「兄者はいい加減、僧正坊様の側近はやめないのですか?」

「会うたびに聞くけどやめないよ」

「まだ、負い目を感じているのですか?」

「……」


 図星をついたようで、彼は何も言わなかった。しかし、後ろから見える烏水の横顔は、少し困った表情をしているように見えた。


「今年も、妹さんに会えなかったのですか?」

「まあね。私としてはもう吹っ切れてはいるんだけどね。……全ては自業自得だ。手紙のやりとりをさせてもらっているだけでも有り難い。それに妹に会えない代わりに、こうやって秋花と過ごすこの時間が、すごく楽しみで待ち遠しいよ」

「私もですよ。兄者は聡く、優しい。努力をし続ける意味を知っているから、他人の痛みや悩みに共感でき、理解者がいる安心感を与えてくれる。だから一緒にいて居心地がいい」

「そうなの? 照れるなぁ」


 調子良く素直に喜ぶ烏水は、照れくさそうに鼻を少し掻いてそう呟いた。


「だからこそ、兄者を独り占めする僧正坊様には早く死んでほしいと思ってますよ」

「その発言で私は一気に居心地が悪くなったよ」


 秋花から烏水への気遣いなどは皆無。秋花が僧正坊のことを好かないことを知っているとは言え、彼女が心に思ったことをそのまま口に出す度に、烏水はいつも胃に穴が開いていく感覚になっていた。


 でも……


「死刑囚と、死んでほしい者の境界は何なんでしょうね」


 つまらない常識に囚われない秋花の軽率な発言は、いつもほんの少しだけ、自分の心の重荷を軽くしてくれている気がした。


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