ヒエラルキー

 入院生活2日目が始まった。朝から蝉が絶えず鳴いている。たったの一週間で子孫を残すべく必死に求愛する姿を惨めとは思わない。なんなら僕はそんな蝉に憧れすら抱いた。---あんなふうになりたいな。願望という言葉が正しいかな。命が短いからとかそういうことではなく、すべきことを行ってから絶えていくからだ。『人間、言われたことはできて当然。』そんなことが言われる世の中だが、言われたことが出来るというのは凄いことなんだと今更わかった。

 ---コンコン

「入りますねー」

 昨日も聞いた声がした。本日の僕の検査おしごとが始まるそうだ。

 中指の第二関節ほどある針が全て肌に包まれた。感覚がないから定かでは無いけれどおおよそ正しいであろう。

 感覚のない部分から採られた血はあまり自分の血だと感じなかった。

「これで今日は終わりです。何かございましたらナースコール...失礼しました。また1時に様子を見に来ますので安静にしておいて下さい。」

 血を採っていった看護師は足早に去っていった。

いつかの僕は死にたい死にたい。ばかり言っていた。それなのになぜ今、こんなにも生きながらえようとしているか。察しのいい人は分かるのかな?

答えは至ってシンプルで幼稚だ。自分より酷そうな人を見つけたからだよ。この大きな病院内に重症患者は沢山いる。生後、監獄びょうしつから出たことのない人、草原の色を知らない人。

誰だってそうだろう?自分よりも劣っていて、可哀想な、そんな人を見ると何故か安堵のような、「自分はまだ平和マシな方なのか」と、本気で思えてしまうのが人間であり、僕である。たとえ今置かれている状況がどんなに多忙であろうとしてもだ。

そこから力が生まれてくるのは然りだ。

僕はふと、考えた。この病院内、乃至は、この地上内での僕のヒエラルキー上の立ち位置はどのくらいだったのだろうと。

この日本は皆平等であると語っているが、実際そうかと問われればそうでないだろう。僕のように死を望む者も居れば、何一つ問題がないとは言わずとも人生を限りなく謳歌している人もいる。この二人を見て、平等かと言われればそうでは無い。もっと端的に言ってしまえば、億の社長とホームレス。福沢諭吉の学問のすゝめも自由や平等を語っている。

スタートラインが違えばゴールへの距離も変わるのは当たり前だろう?

東京マラソンをゴールの四十二・一九五キロ離れた距離からスタートする一名と、ゴールの一メートル手前でスタートする一名。どちらが先にゴールするか、もちろん一メートル手前の人だ。スタートが違えば全て違う。

億の社長の子は億の社長の子。ホームレスの子はホームレスの子。そんなの決まっている。

少し話が逸れてしまった。そんな歪んだ世界で実際のところ僕は今どれくらいの立場にいるのだろうか。



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