第4話 和解のムース
「…………誰から聞いた?」
「何がですか?」
試されてるのか? 俺は、自分より年下の女の子に試されてるのか……?
自他共に認めるポーカーフェイスの俺は、何とか動揺を顔に出さずに済んだ(見事にパレットナイフは落ちた)が、嫌な汗が背筋をつたった。
「桂木さん?」
「…………」
俺は無言でパレットを拾い水で洗う。
横目で盗み見た夏希の表情に、疑わしいところはない。どころか、純粋に俺を見つめていた。
「くっ……!」
俺は歯がみした。
『これでチャラ。誰にも言わない』と言っていたのに、よもや見知らぬ美人の言葉を鵜呑みにしてしまうとは。よもやこのタイミングで、こんな子をけしかけてくるなんて、何と狡猾な悪女よ。
確かに悪いことをしたのは俺だ。それは認めよう。眼福とか思っちやったのも反省しよう。ただそこを徹底的に突こうとする悪魔的所業は、許してはいけない。将来、こいつがパパだのと言う爛れた生活を営むようになってしまってからでは遅いのだ。草葉の陰も、佳枝さんの涙でしとどに濡れているだろう。
「あれ? 聞いてました? ねえ、桂木さん?」
「ああ、うん聞いてた聞いてた」
「あの……」
世に蔓延る不況とポルノグラフィティは、俺の力だけではどうしようもできない。ただ目の前の少女を救えなくて、何が男か。何が大人か。
人生の先輩として、たかだか数年の差であろうと示してやらねばならない道がある。
「ま、なんだその……」
「…………」
「穴があったら入れてみたいよね」
「…………!」
俺の思考回路と口舌は完全に分離していた。どこで何を誤ったのか、この止まりかけた時間の中で探し出す。
……全部間違っているような気がしてきた。
「待て振り返るな、待て。行くな行くな」
びっくりするほど、あからさまに背を向け歩き出した夏希を追う。
「な、七海ちゃんに教えに行かないと……」
「は、はは、はは早まるな! 待って! いやおい待ってください。ちょっと、ちょっとでいいから! 違うの! 言葉のチョイスを間違っただけなの一!」
「うぅ、は、放してください……わ、わたしには七海ちゃんの密命を遂行するという大義が――って、謀られた!?」
「謀ってねえよ、自分で転げ落ちたんだよ!」
俺は高速で頭を回転させた(物理的にぐるぐるすると白眼視されます)。
「…………」
人間性、社会的地位、将来――俺はいったいいくつのものを失うだろうか。
そもそも何だ。何なんだ。金か。金を渡せば黙るのか。
しかし先ほど、そういう道を辿らせるのはよくないことだと言ったじゃないか。じゃあ、何が問題だった? 俺は何がダメだったんだ?
やっばり悪いところしか思いつかず、心臓が早鐘を打った。
「……マネージャーに何を聞いた? 言わないと絞り袋でクリーム突っ込むぞ」
「お尻にですか?」
「やめて! 聞こえちゃう! みんなに聞こえちゃうから!」
俺はクネクネした。
とにかく悪に徹し全て聞き出して、打開策を考えるしかない。初日からこうなったのは、完全に俺のせいだろう。ごめん雪花。もしかすると俺はもうここには来られないかもしれない。
「コホン。さ、吐くんだ」
「…………」
「いったい、どこからどこまで聞いて、俺をどうするつもりなのかを教えてもらえるか」
場合によってはこの店に軟禁されかねない。俺は人生で一番の覚悟をした。そして夢も諦めかけた。
「七海ちゃん、何も言ってませんよ?」
「隠し立てはよろしくないぞ。お母さんも見てるかもしれない。嘘をつかず、吐くんだ」
「う、嘘はついてないんですけど……あの、こ、怖いです」
「俺はお前が怖い」
「えっ?」
読めない。何を考えているのか、全くわからない。かなりの手練れと見た。
「教えてください。お願いします」
「は、はあ……別に構いませんけど」
「えっ?」
隠す必要はないということだろうか。あるいはもう次の策略を巡らせているとか……?
「じゃあ、回想を始めますね」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あれ? マスター、どこ行くんですか(雪)」
「へ?(夏)」
「掃除。まだ終わってませんけど(雪)」
「あ、え、えっと……あの、ち、厨房のほうを……(夏)」
「それは私たちの範囲じゃないです。さ、ほら、こっち(雪)」
「わぁぁっ、待って、待って……っ(夏)」
「夏希は見たいんじゃないの? 彼、厨房で何かやってるでしょ?(七)」
「何かやってるんでしょうけど。邪魔するのはどうでしょうか(雪)」
「じ、邪魔しない! 遠くからそっと覗き込むだけ……(夏)」
「……それならまあ。先輩、ああ見えてわりと人見知りする人なんで気をつけてくださいね(雪)」
「はっ? 人見知り?(七)」
「わりと上から来るというか、ロ悪い人なんですけど、あれは慣れない人に対する威嚇っぽいですね。付き合いが長くなると、比較的おもしろい人なんですけど(雪)」
「……カパカパなのに?(七)」
「力パカパですけど、意外に頭はいいんですよ、先輩。ちなみに高校3年間、常に学年首席でした。でもほら、バカと間抜けは紙一重って言うじゃないですか(雪)」
「……バ力と間抜けは同義でしょう?(七)」
「と、とにかく見てくるね!(夏)」
「……私は事務室にいるわ。何かあったら呼んでくれる?(七)」
「…………(雪)」
「威嚇、か……。お尻お尻言ってたような気がしたけど聞き間違いかしら(七)」
「!!!(夏)」
「雪ちゃん、いま、聞いた?(夏)」
「は?(雪)」
「わたしは聞いた。しっかり。あれだよね、質問とかならしてもいいんだよね? 邪魔しない程度になら(夏)」
「いいと思いますけど。マスターって一緒にいるとかなり面倒ですから、先輩を刺激しないように気をつけてくださいね。食べられちゃいますよ(雪)」
「弱肉強食!(夏)」
「マスターのホイル焼きとか見たくないですからね、私(雪)」
「……ちょっと怖くなってたよ、わたし。でも頑張れ、わたし。負けるな、わたし(夏)」
「恐怖を知るのはとてもいいことです。危機管理能力が機能していれば問題ないでしょう。じゃあ、私は掃除があるので(雪)」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……という感じで」
「要約すると、俺の邪魔をしに来たってことでいいんだな?」
「意思疎通が図れなかった! さすがボンジュール。言語の壁は厚いみたいですね、桂木さん。……雪ちゃんの言ってた通りになった」
「……ん? 今、俺のことバ力にしたか?」
「…………」
「おい」
かいつまんだところしか聞いていないが、マネージャーが何かけしかけてきたわけではないらしい。確かに口外したいことではないだろうし、焦っていたのか、俺はちょっとどうかしてた。
「さて、と……」
「何かするんですか?」
「ま、ぼちぼち。後は形にするだけ」
夏希が話をしていたとき、手を動かしていた俺は、ここにあったものも数点取り出し、ある程度の素材を用意して終えていた。
せっかく時間があるし、条件付きとはいえ教えるといった手前、自分ができることぐらいは見せておかなければならない。手前の力を見せず投資をしてくれる人間なんて存在しないのだ。
「俺はあんまり口が上手じゃないから、見て学んでくれ」
「……大文夫です。もう覚えました」
「……は?」
「見てましたから」
「……抜け目ないな」
本当に覚えられたのかはわからないが、俺の手元をじっと見つめていたのは確かだ。
そこらへんは伊達に佳枝さんの娘じゃないというところだろうか。
「不器用だからな。とにかくメモするなりして覚えていってくれ。すぐに出来るとは思ってないから、わからないことは聞くようにしてほしい」
「おぉ……先生!」
「先生はやめてくれるか」
先生と呼ばれるほどたいしたことは出来ないだろうし。
とにかく俺は、目の前のこれを片付けることにした。雪花にムースを手渡し、俺は事務室に向かった。
完成したこれを食してもらわねばならない人間がもう1人いて、しかもその1人に、俺はやけに罪悪感を抱いていた。
しばかれてしまったのは、無論俺としてもわかりやすいけじめのつけ方であったものの、だからといってそれでいいかと言われると、そうでもない。
あのことがあったからか、俺の腕が疑われているらしい。食してダメだと言われるなら改善の余地もあるが、人間性の根本から実力まで悪し様に言われるのは、納得できることじゃない。
ただ俺には、このアマ、法に抵触しないギリギリのラインで視姦したろか、なんてクソ度胸があるはずもなく、まして主体性も女性への免疫も持たないへたれ野郎としては、下手に出るほか手段がない。物でつるようで気が引けるけど。
この店がなくなったところで俺に影響はないが、手伝うといった手前、そういうわだかまりは1つでも解消しておきたいというのが本音だろうか。
どこかアンニュイな気分も、そのせいだろうかと思案したが、悩んだところでしこりがとれるわけではない。
◇
「こめんなさい」
俺はマネージャーに謝罪すべく、事務所に入るなり頭を下げた。
「な、何が……?」
「……マスター。あれを」
「はい!」
「どうぞ」
「う、うん、ありがとう……?」
カ力オ分が多めのチョコレートを使ったムースを置き、そして風味が強すぎない紅茶を並べた。
「どうぞ」
「わ、わかったから。食べるから」
マネージャーが、漆器のような艶があるムースにフォークを通し、小さくすくって口に放った。上品に食べるもんだ。慣れてる感があるな。
「……あら。ビターなのかと思っていたけれど、そうでもないのね」
「本来ならもう少し苦みが強い。そのあたりの好みがわからなかったから、少し抑えめにした」
「ふぅん、ロ当たりも悪くないわ。ううん、美味しいわね。正直、びっくりした」
「というわけで、先ほどは大変申し訳ない」
「…………」
「ほらマスター、頭を下げなさい」
「こめんなさい」
「どうして夏希に謝らせるのよ……何もしてないでしょう、この子……」
「いや、俺もよくわからないんだが。ついてきたんだ」
「はい。ついてきました」
「……なるほど」
マネージャーが溜め息混じりに2度領いた。
「……籠絡したわけね。これで」
ムースを指さし、マネージャーが嘆息する。
「あなたね。夏希は大概馬鹿なんだから、変なことしないでくれるかしら」
呆れかえったマネージャーがソーサーを手にとって、そんなことをおほざきになられた。何もしていないというのに。
それを目に焼きつけた俺は海外の通販番組よろしく、わざとらしく肩を竦め、マネージャーからマスターへと視線を移した。
「……間いた? なあ、マスター、聞いた? よりにもよって、この俺に向かって変な――変なことをするなと! へ・ん・な・こ・と・を・! あろうことかフェミニストを捕まえて手籠めだ蹂躙だと、下手に出てりゃいい気になりやがって、ぬけぬけとほざいたな。上等だゆるふわカールが。このロか!? この口が悪いのか!?」
「ひ、ひふあいれふう……っ!(いたいですー)」
「……き、気持ち悪いぐらい仲良いわね、あなた達」
マネージャーの冷めた眼差しを感じ、かぶりを振って深呼吸した。ついつい取り乱してしまった。
「俺としたことが興奮してしまった。申し訳ない」
「ひぅぅ……」
「尋常じゃない取り乱しようだったけれど」
「というわけなので、マネージャーに悪いことをしてしまった罪を償うためにムースをお渡しします」
「さっきも、あれ(ほとんど掌底に近いビンタ)で差し引きゼロって言わなかった?」
「いいと言われても、やっぱりそこは、うん、なんだよ見るなよ、照れちゃうだろ……」
こういう空気には慣れていない。どうにも視線を合わせづらい。そこまで怒っているわけでも、根に持っているわけでもないのであれば、いいのだが。
「それで? 先生は今日からもう働いてくれるのかしら?」
「今日は、ご挨拶までに」
「じゃあ、もう帰るのね?」
「一部、今日届く荷物がある。それを受け取らないといけないからな」
事務室にかけられた時計を見て、俺は頷く。
「ふあふえ? もうふえへひやへひゆんでふか?(あれ? もう帰るんですか?)」
マスターの頬に添えられた俺の両手がぷにぷにとした感触を楽しんでいた。
「お前は何を言ってるんだ」
「ふあ! ひろいふえふ!」
「酷いのはお前の呂律だ。酒でも浴びたのか?」
「……どういうことよ……どうしてそんな親しくなってるわけ? この数時間でいったい何があったの……?」
◇
夏希(マスター)を散々いじった後、俺は店を出た。
「はぁ……」
いけないとは分かっていても、ついため息が出てしまう。
やることはやった、なんて言えるほど俺はまだ何かをなしたわけじゃない。
店を出る前に少し帳簿を見せてもらったが、正直、彼女たちはエイルハートが、今まさに崖っぷちに立っているという自覚が足りない。
この2年、何をどうやって店を維持させてきたのかはわからないが、いずれ行き詰まる。行き詰まり身動きがとれなくなってからでは遅い。
差し出がましいことかもしれないが、そこらへんの希薄になった意識を叩き起こしてやらないと。
俺がやろうしてるのは、ただのお節介。あるいはバカンスも尻尾を巻いて逃げ出すような無益な労働なのかもしれない。
けれどそれもこれも亡き恩師のため、前途ある後輩たちのため。
「ま、いっちょ頑張りますか」
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