第3話 足りないもの
「……こっち向いていいわよ」
「ごめんなさい」
振り向きざまに90度体を折りたたんだ。
「4つ。聞きたいことがあるのだけれど」
顔を上げると、美人が4本指を立てていた。
「はい」
「まず1つ。あなた、変態なの?」
「……いや、違うかと」
「2つめ。ここで叫んで、夏希と雪花を呼んでもいいけれど、それは不都合があるのね?」
「た、 多分に……というか、 このお店としても、あるいは……」
「3つ。あなたが、雪花の先輩で……フランスでパティシエとして働いているっていう、桂木悠人?」
「はい……あ、あのなにぶん、店には……」
「黙りなさい、覗き魔」
覗きっていうか、むしろ堂々としてましたけど。 1メートルないぐらいの距離で……
「……最後に」
「はい」
「1度、叩かせてもらっても?」
「………………………………うす」
「……いくわよ」
後ろに手を回して足を開く。歯を食いしばり、目を閉じた。
◇
「桂木さん、どうしたんですか?」
「ひゃひが? (なにが?)」
更衣室から戻ると、夏希が不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「ほっぺた真っ赤ですよ」
「いや、ひゃんひもなかっらよ(いや、なにもなかったよ)」
「あははっ、何だか覗きをして叩かれたみたいですね」
「……………………」
俺と夏希の一連のやり取りを見ていた雪花はジト目で。
「ずいぶん遅い着替えでしたね、先輩」
「もうそれには触れるな」
頬の痛みがとれた頃、店内には俺を含め4人のスタッフがいた。
「では、あらためて紹介します」
皆を代表して雪花が言った。
「これがうちのマスターです」
「おい。知っているとはいえ諸々を省くな」
「マスターです! よろしくお願いします!」
「お前もか。お前も端折るのか」
「あ、そうでした。保坂夏希です。えと、母のお店を継いで2年になります。あと、えと……」
「好きなコースは?」
「インローです」
「そうか」
「え、今なんでそんなこと聞いたんですか。必要でした?」
雪花の疑問には、俺と夏希が無言で答えた。
さて、この保坂夏希というのは再三言うが、俺の師であった保坂佳枝の一人娘だ。
父は幼少の頃に遠いところにいるという。それが意味するのは、きっとまあ、そういうことだ。
女手一つで育てられた彼女は、店に出入りするな、という言いつけを守っていたらしく、俺との面識はない。
そもそもあのぶっきらぼうな師に娘がいたということに、俺は驚きを隠せなかった。 しかもどことなく似ている、なんて妥協的観点も持てないほど、外見に親子の類似点は見られない。
それが2代目マスターとして店を継いだ、と。経営も担っているということだろうか。
昨日実感したが、菓子作りは絶望的だ。どうやらこの店で出される軽食の類ならギリギリ作れる、というところらしく、洋菓子店ではなく、喫茶店として生き存えていた感は否めない。
俺が昨日、余計な注文をしてしまったことで動転し、結果として注文とは全く違うものを生み出してしまったのだとか。これについては教育の必要が十分にある。
「で、これがマネージャー」
……雪花の説明にはいちいち悪意を感じるな。
「
「…………」
瀬川七海――ウェーブのかかったセミロングの赤い髪に、抜群のスタイル。
正直、眼福でした。決して口には出せないけど。
「変態?」
「……夏希には関係ない。というか触れるな」
ちなみにマネージャ-という存在について、俺は多少の説明を受けていた。
だが覗き、もとい侵入という宿願を果たした俺の信頼は、イカロスより早く墜落してしまった。
「マネージャーは、マスターに代わって金銭的なところを担当しています。表で働くことはありません。というか料理に明るくないので、口を出したくても出せません」
「余計なことは言わなくていいわ」
「先輩が出て、すぐにここで働き始めたので、うちの中でも古参になるかと」
「古参も何も3人しかいないじゃないか」
「あ、いえ。他にもいるんですよー」
夏希が笑顔でそう補足してきた。
「他?」
「
「……そ、そうか」
とりあえず現状のスタッフは4人いるらしい。
頼りないマスターと、スタイルのいいマネージャー、それと雪花。あとは料理を担当する千秋さんとかいう人。
うーん……なんとなくだが、2階まである店内をいっぱいにするには、不安が残る面々だな……
(あれ……?)
ふと雷鳴のように疑問が浮かび上がった。
紹介の流れが自然すぎてつい忘却してしまっていたが、重大なことである。
――春花が、いない。
あいつも俺と同じくパティシエを目指し、二人一緒に〝エイルハート〟の門を叩き、佳枝さんに弟子入りをした。その彼女がこのメンツに含まれていないのは、いったいどういうことだ?
そもそも春花がこの店に残ってさえいれば、俺がわざわざパリから戻ってくる必要なんてなかったはず。
かてて加えて、あの頃は決してエイルハートに近づこうとはしなかった雪花が、春花と入れ替わるようにして、いま、この店の制服に袖を通している。わけがわからなくなってきた……
本当ならすぐにでも本人や雪花に理由を尋ねるべきなのだろうが、正直、雪花に訊くのはあまり良い予感がしない。
……まあ、あれから3年も経っているのだから、春花にも何かしらの汲むべき事情があったのかもしれない。いまは俺の胸の内に収めておくか。
「で、雪花。一応確認するけれど」
「はい」
「この人、本当に大丈夫なの?」
マネージャーさんが俺を指差しながら言った。
「何がですか?」
「いえ、雪花の先輩で腕は確かって言うから……その……」
「……ああ、なるほど。そうですね、一部ちょっとどうかしちゃってますけど、概ね問題はないです」
「そ、そうよね、どうかしてるわよね」
「はい。頭のネジがありません」
「お、おい……」
「緩いんじゃなくて、ないのね。カパカパしちゃうじゃない」
「はい。カパカパです。きっとそこから色々漏れ出たんでしょう」
「お前ら……」
俺、泣いてもいいっすか。
「すみません、先輩。 擁護できかねるところでしたので」
「……せめて陰口にしよう。俺、そういうところデリケートだから」
「でもでも、
夏希は手に持っていたスイーツ系雑誌のページを大きく開いて皆に見せる。というか、こんな雑誌が日本で発行されていたことすら俺は知らなかったんだが……
「先輩のパティシエとしての腕は……まあ、本場パリの職人章を持つお店に引き抜かれるぐらいですし」
「じゃ、これで〝エイルハート〟も安泰かな? お客さんもたくさん来るのかな?」
「雪花や夏希を疑うわけじゃないけど……うん、そうね。その腕が本物なら――」
俺を蚊帳の外に置いた会話を聞きながら、俺は厨房に足を向けた。開店すれば閉じられるであろう扉が、今は開かれたままだ。
(懐かしいな……)
けれど、やはりあの時の空気は感じられない。人はいないし、しばらく使われていなさそうなものまで多くある。
ただ掃除はしっかりしているようで、衛生管理も行き届いている。中華鍋の意味は問わないことにするとして(ここのメニューに中華鍋が必要なものはない)とにかく、佳枝さんの店だっただけあって、管理は素晴らしい。
「ふむ……」
不安が残る、と言ったのを訂正しておこう。メニューに必要な材料、器具が完璧に揃っている (不必要な鍋は無視)。それに使用されていないにも関わらず手入れもされている。
客が3日来ないような店にも関わらず、当然のことを当然のようにできるここの調理師は、このご時世望むべくもない。
自分が使用する道具は一応、持ってきたが必要なかったかもしれないな。
「……んーと」
開店までは2時間しかないが、少し仕込みをしてみようか。
雪花は『どうせすぐには来ません』なんて言っていた。『色々手は尽くしたし、やれることはやった』とも口にしていたが、まだ甘い。まだまだ甘い。
失態はどやされるし、すぐに切られてしまう。人材は溢れるほどいるし、志半ばで去った先輩方を山ほど見てきた。
努力は質だ。質は結果に結びつく。結果を伴っていないこの店の状況は、諦めるには早すぎるし、『頑張った』というには弱すぎる。
がちゃがちゃと道具を取り出し、さっと洗う。
「桂木さん?」
「んー?」
視線は向けないが、声で夏希だと分かった。
「何してるんですか?」
「見てわからないか?」
「わかりますけど……で、でもその、え、えぇ?」
「佳枝さんに教わらなかったのか?」
「何がです?」
「色々とさ」
「お母さん、私にはあまりお店のこととか、お菓子のこととか、そういう話はしてくれませんでした」
「……そっか」
目線を変えず手元においたまま、俺は夏希と言葉を交わす。
どうも気心しれた相手じゃないと話しにくい。
「…………」
「…………?」
「おぉ……」
「覗きすぎ覗きすぎ。近いって」
夏希が、息が吹き掛かる距離から俺の手の動きを覗き込んでいた。青い瞳が、瞬きする。この子、やっぱりちょっと抜けてるみたいだ。
「桂木さんは、お菓子好きなんですか? 結構食べてます?」
「今はそんな食べないかな」
「食べないんですか?」
「うん、好んでは食べないな」
「はぁ……なるほど……」
「…………」
「あの、桂木さんって――」
「んー?」
出来れば道具を持ってるときは話しかけてないでほしい。
そう思いながら、手元に意識を集中していると、
「お尻が好きなんですか?」
「…………カチャン(パレットナイフを落とした音)」
俺の視界は一気に暗転した。
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