第2話 沈みかけの船



見知らぬ天井が視界に広がっていた。

遮光性カーテンの隙間を抜けて入り込む陽光と、鳥のさえずりが朝だと告げている。


「そうか……」


長い空の旅を経て、帰ってきたんだった。

緩やかに覚醒する思考が昨日の出来事を整理する。そして瞼を擦り、飛び上がるように布団から抜け出した。


最低限、必要なものしかない殺風景な部屋。

足下に転がる1リットルパックのオレンジジュースを手に取り、少しだけロをつける。

寝起きの気分はとてつもなく最悪だ。血の巡りが悪い感じがして、やけに不愉快。


で、ボサボサの髪の毛を掻き上げたところで、違和感に気づいた。


「おはようございます、先輩」

「……………………」


俺のベッドの横にはなぜか雪花。


「……ちょっと待って。一回冷静になろう」


俺は開けたばかりのオレンジジュースを飲み干して、シリアルを胃袋へ流し込む。

それでもいまいち頭が回らないから、雪花を無視して風呂場に向かいシャワーを浴びることにする。


「俺……始まったな」


ダビデも剃毛するレベルの肉体美を風呂場で眺めた俺は、すっかり平常運行になった。


寝起きはいつも悪く思考回路も安定しない。

ルーチン化した飲食、風呂の流れをこなさないと、昼過ぎまでずっと精神バランスが整わない。

だがシリアルとオレンジジュースで脳を活性化、及び熱いシャワーで血をボイルさせ肉とダンスした後の俺は俊敏、かつ丁寧な試合運びを見せた。


「そして俺は仁王のごとき肉体と菩薩(ぼさつ)のような笑みを浮かべ、 ひよっ子ドライバー・雪花の前に立つのだった」

「漏れてます。 先輩の大事なモノローグ漏れちゃってます。ていうか何ですかひよっ子って。 全然ひよっ子じゃないです。 免許とって10ヶ月も経ったんですよ、10ヶ月」

「いやなに、 別に馬鹿にしてるわけじゃないんだ。俺は免許すらないしな」

「いいです、別に。馬鹿にしたければ、すればいいじゃないですか。陰で言われるよりはマシです」

「うわははははは! ははっ、わはははっ!」


俺は雪花を指差し、 産声のように大声を上げとにかく笑ってみた。


「わははははっ! ひぃ…………っ! ひいいっ…………」

「そろそろ引き千切りますよ」

「ごめんなさい」


ことさら冷淡な眼差しに怯んだ俺は、服を身にまといながら来訪時言い忘れていたことを口にする。


「おはよう、雪花。待たせたな」

「はい、おはようございます、先輩」

「わざわざ迎えまで悪いな」

「気になさらないでください。……ところで先輩」

「ん?」

「綺麗なシャツを着てフロントダブルバイセップスの最中に申し訳ないのですが――せめて下を穿いてくれますか」

「…………失敬」


風呂場でのシャルウィーダンスの名残を引きずり、ぼるんぼるん(男性的矜持の擬音)と踊っていた破廉恥なものを隠すべく、俺はジーンズを思い切り持ち上げた。


「……パンツ穿いてない」

「えっ?」

「ぱ、パンツ穿いてないです!」

「…………」


くるりと翻って、ベルトを外し中身を確認してみた。


「……マジか」


どことなく締まりの悪い感じはしていたが、とんだ失態だった。俺は雪花に背を向けてジーンズを脱ぎ、パンツを穿いた。


「あまり時間ないんですから、早くしてください」

「完璧だ。よし出ようぜ、駆け出しちゃおう、ほら夕陽に向かって!」

「パンツで外に出るつもりですか」

「ぎゃあ! オチがついちゃった!」









「お、おお、おはようございます! 先生!」

「うん、おはよ」


俺は鞄をウインドウの上に置き、恩師の娘さんに挨拶をした。


「き、 今日からよろしくお願いします」

「そんな形式張らなくてもいいよ」


〝潰れそうな店の再建のため、手を貸してほしい〟という頼みを受けたのは昨日のことだったが、 手伝ってほしいというのは、2週間ほど前に雪花から言われていた。


俺はその日のうちにオーナーシェフに掛け合って、長期休暇をもらい戻ってきた。

ここの先代、佳枝さんとうちのオーナーは旧知の仲だから、しばらく日本に帰ると言ったときも、鷹揚に頷いてくれた。

向こうで働いていた際の給金は、ほとんど使っていないし、ここでの生活には困らない。


だが現在のエイルハートは、俺が向こうでもらっていた給料の5分の1も出せないという。

『当時の活気が戻れば、きっとお支払いします』 と、沈没間近の船長はそう言っていたが、 かかるご時世、そんな不安定な甘言に釣られたわけではない。ただ――


店を引き継ぎ、2年もの間、『母の店だから』と形態を変えず、たとえそれが不器用な形だとしても必死にやってきた彼女の思いには報いてやりたい。

長い間、 恩師に顔を見せなかった弟子としても、恩返しはしたいところだしな。


「あ、あの、 厨房……じゃない、お着替えは、えと、更衣室がありますので……」

「知ってるよ。一応、これでも佳枝さんの弟子だったんだ。少なくともキミよりはこの店のことは分かってるつもりだ」

「デ、デスヨネー……」

「マスターは緊張しすぎです。落ち着いてください」


先に着替えから戻ってきた雪花が、ジト目で頼りないマスターをフォローする。


そういえば、朝、なんで鍵を掛けたはずの俺の部屋に雪花がいたのか、車内で聞くはずだったのをすっかり忘れていた。まいっか。


「じゃ、俺も着替えてくるわ。ちょっと待っててくれ」


勝手知ったるなんとやら。高校時代の3年間お世話になった更衣室に向かって俺は歩みを進めた。


「――――ッ!?」

「ああ、おはよー」


更衣室の扉を開けると、中には先客が1名。

俺は構わずズカズカと奥に進み、『桂木』のシールが貼られたロッカーの前に立った。


「あ、う、あぅ……あ……」


そういえば、俺は結局、何一つ佳枝さんに見せられなかった。

磨いた腕も、恩師を追い越したいと思っていたことも……そう、何もかも……


だから俺は、せめてもの妥協案として、


『俺、自らが全て造り、店に出すのは最初の1週間だけ』

『まずは1週間で学んでもらう』

『俺のやり方を見て、盗んでくれ』


とだけ伝えた。


もちろんお金は受け取らないし、気まぐれで教えるという何とも厄介なことを言ったわけだが……


それでも恩師の娘さん――保坂夏希は、一も二もなく頷き、「ぜひ!」だなんて笑顔を見せた。


「あ、あの……?」

「はぁ……」


俺はため息をつき、ズボンを履き替え、コックコートに袖を通した。

そしてエプロンを巻き付け、自分のテンションが沈みかけていることに気づき、髪を掻き上げた。

あまり待たせるのは悪い。深呼吸をして気分を入れ替え、俺は更衣室を出た。


「……………………あれ?」

「ひっ――!」

「いやいや、靴履き替えるの忘れちゃ――…………えっ?」


靴を取り出したところで俺の思考が停止した。

おそるおそる振り返ると、そこには見事な山が2つ。それにオサレな下着が……


「失礼、お嬢さん」


鬱々としていた心に日が差し、浮き出しそうな足を押さえつつ、俺はあくまで紳士的に謝罪した。

その綺麗な肢体を網膜に焼き付けられた喜びと、社会的地位を一瞬にして失うのではないという焦り……その2つの感情を押し込め、白い歯をこぼしてみせる。


「…………だ、だだだ誰よ」


そしてお嬢さんは引き攣った笑みを浮かべ、紳士に向かい問い掛けてきた。

自身の身体を見られてしまった怒りと、不審なものの出現に対する恐れが、端正な顔立ちに張り付いていた。


「俺は桂木悠人。好きなコースは内角高め。嫌いなコースは30分1回コース。職業はアナリスト。趣味はアナライズ。好きな偉人はウェスパシアヌス。……す、好きな諺は前門の虎、後門の狼。今後お知り合いに……や、すみません何でもないです全部忘れてください」


言葉巧みに逃げだそうと画策したが、みるみるうちに憤怒の色合いが強くなる美人に気圧され、目を背けた。


「ホントすみません……あの、わざとじゃないんですマジで。出来心とかじゃないんです。考えごとしてて、つい……いや、ついじゃねえや。あの、だって人がいるなんて聞いてなくて……というか、あっ、お姉さん綺麗ですね」

「……………………」


そして俺はコーナーをつく危なげない投球で、自分をどんどん追い込んでいった。


「あ、あの……」

「3分。ちょっとあなた、後ろ向いてなさい」

「は、はいぃぃぃ!」


左足を引き。それを軸にくるりと振り返った。目の前には扉があり、今これを開けられたら、色々な意味で終わってしまう。


頭を下げられ、頼られることは正直、嬉しい。これから恩師の娘さんも、雪花も学んでいくだろう。

恩師が俺にしてくれたように。俺が恩師から吸収したように。


だが、教えるという大役は俺に回らないかもしれない。




「俺、終わったな」







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