落ちぶれた洋菓子店を再建するため、日本に帰国した天才パティシエ。~恩師の店を追い込んでいたのは、幼馴染みのアイツだった~
がおー
第1話 プロローグ
「――なあ」
相手の
「右車線だと首都高に乗り込むけど……」
「う、うるさいです。黙っててください!」
「……す、すまん」
12時間の長旅のあと、電車を乗り継いで故郷についたときには、夕陽が街を覆っていた。
キャリーバッグを転がしながら、のそのそと街並みに溶け込もうとした俺、
とんだ物好きがいたものだと鼻で笑っていたのだが、そいつはあろうことか俺を車に呼び込み、そのまま発進したのだ。
「はぁ……」
ノスタルジックで、品のない茜色を見てため息をひとつ。
母親に影響を受け、お菓子を作るようになったのは小学生の頃だった。母さんはあまり上手くはなかったが、それでもその腕前には遠く及ばなくて。それが悔しくて必死に努力したのを今でも覚えている。
中学生の
そしていつの間にか、日本よりずっと社会的地位を得ているフランスのパリで働くようになっていた。
「――なあ」
アクセルを踏み、徐々にぼけだしていく景色を眺めながらもう一言。
「高速乗っちゃったけど」
「う、うぅ、運転中の私語は厳禁です! あと土足!」
「……ごめん」
座席を限界まで前方にスライドさせ、前のめりに震える手でハンドルを握るという。同乗者の不安を極限まで煽るこいつは、俺が高校生だった頃の後輩で、
そんな彼女とは元々家が近かったこともあり、何かにつけ共に行動していた。
お菓子を食べるのが好きだったらしく、俺の試作品の犠牲になってもらっていて、学校の外でもたびたび会うことがあり、その都度、俺に菓子作りをせがんできた。
タダで食べられるのだから、気持ちは分からないでもないが……
「……ぐぐぐ……」
殺し屋よろしく、じっと前方を睨みつけてる雪花の横顔は、かのハンフリーボガードも尻尾を巻いて逃げ出す面構えだ。
少なくとも、先輩先輩と言って後ろをつけてきた面影は、残念ながら今のところ見られない。
俺がパティシエとしてパリで働き始めたのが3年前。その間、1度も連絡をとってないから、かなり久しぶりの再会だ。
まさか送迎があるとは思っていなかったから、素直に礼を述べることにする。
「なんか、迎えに来てもらって悪いな」
「いえ」
「中心街が様変わりしてて、すげえ焦ったよ。駅なんていつ改築したわけ?」
「ええ、そうだと思います」
「駅前の、何だカフェ? ルヴォワールだっけ? すごい人だったな。こっちじゃ人気あんの?」
「どうでしょう」
「それにしても、なんか新鮮だなー、お前の運転見るなんて。ああ、そっか。俺が向こうに行ってからだよなー、いいなー、俺も免許とろうかな」
「ええ、いいと思います」
「世界的大不況という激甚たる被害をどう考える?」
「素晴らしいと思います」
「人の不幸は蜜の味か」
「…………」
「…………」
「…………」
「おっぱい――あだっ」
「た、たた、叩きますよ……っ!」
もう叩いとるがな。
激痛のあふれ出る鼻水をすすり、ちょっと緊張をほぐしてあげようという俺のお心遣いは、爆発という形で幕を閉じた。
「そういえばお前の姉さん――春花は元気にやってるのか?」
「…………ええ、まあ」
「アイツもパティシエ目指してたからなあ。それに――」
「先輩、ちょっと黙っててください」
「……了解」
ちなみに彼女の姉、
しかし俺の記憶ではこの姉妹は昔から折り合いが悪く、3人で一緒にどこかに行った・遊んだという記憶がほとんどない。だからこうして春花の話題を振ろうとすると、雪花はいつも不機嫌になる。
「はぁ……」
俺は仕方なくラジオのチャンネルを変えた。だが、どこに合わせても知らない曲ばかりが流れていて、つまらない。
なんだか駆動音と振動が心地よくなってきた。長旅の疲れを癒すため、俺はゆっくりと目を閉じる。
「………………」
「ど、どうして黙るんですか、先輩」
「つい5分前、黙ってろって言われたような気がするんだけど」
「ご、5分も前のことじゃないですか。忘れてください」
「暴君だ……」
雪花は心細くなったのか、視線こそ俺に向けないものの、意識が前方から逸れてきているようだった。
ちなみにこの車のボディには、初心運転者の印が貼られている。
親の車をわざわざ借りて迎えに来てくれたのはありがたいことだが、とってもかっこ悪い。
「ところでトイレ行きたいんだけど。サービスエリア入ってくれないかな」
「そ、そんなリスキーな要求は待ってください……っ」
「リスキーってお前、このままだとアレだぞ、あの俺のアレが、その爆散する可能性も否定できな……いやほらそこ、左、左――って、あぁ……トラックが左から幅寄せしてくる……」
「だってハンドル切るとアレですよ、あの、あれがその、アレなんですから。ハイリスクノーリターンです。ですので、その要求は却下です」
「このまま通過されると俺のスーツと車のシートが犠牲に――って。ホントに通り過ぎちゃう。なあおい、長時間堪え続けられるほど俺のアレは優秀じゃないから、しっとりしちゃうから」
「そこらへんですればいいじゃないですか」
「タブーへの誘惑!」
「何なんですか、もう……」
悪いことを言った覚えはないのだが、仕方ない。この場を和ませる手段を模索しつつ、禁断のプレイは丁重にお断りするとしよう。
流れる案内標識には、もうそろそろ目的地に着くと書いてあった。それまでの我慢だ。
「………………」
雪花の不安定な運転と、たびたび襲ってくる振動を堪え制御する。
――俺の戦いはこれからだった。
◇
「車、置いてくるので先に中で待っていてください」
「うん」
静けさの宿る街の一角にある店を見上げた。
懐かしさに、自然と頬が緩む。
同時に、この店の佇まいが恩師の顔や声、性格までも容易に思い出させた。
俺がかつてこの日本で師事していた恩師が亡くなったいたと知ったのは、2週間ほど前のことだった。
師――
だが俺の連絡先を知っているもの両親以外になく、また俺も仕事の忙しさからここに戻ることがなかった。
情けないことに彼女の最後の弟子は、その忙しない生活にかまけて手紙の1つも書かなかった。
そんな不肖な弟子を、師は何と言って叱るだろう。
佳枝さんは怖い人だったから……そう簡単には許してくれないだろうな。
「……やべ」
涙腺までが緩んできた。感傷に浸るために戻ったわけではないというのに。
かぶりを振って、深呼吸を1つ。
そうして平静を取り戻し、俺は店内に入った。カラン、と乾いた音が響く。
洋菓子店『エイルハート』
ケーキやビスケットなどの菓子をメインに、テイクアウトもできる店として、また大人向けにお酒に合う菓子などが味わえる趣向を凝らした飲食店として、主に女性から人気があった。
「えっと……あれ……?」
店内の装いは3年前に見たままなのだが、閑散した店内に、当時の活気はない。
どうしたんだろう。こんなに人気がない店だったろうか。
レジを兼ねるウインドウの中には、何も置かれていない。
あのウインドウには佳枝さんや、そのお弟子さんが作った菓子の数々があった。持ち帰るのもよし、食べていくのもよし。そういうスタイルは、やはりなくなっている。
しかし店自体は休業しているわけではない、と雪花が言っていた。
「…………」
急に不安になってきた。
客を野放しにするような店だったろうか。
まあ誰もいないなら仕方ない。ひっそり入り込んで座っていたところで、空しいだけだ。と、いったん外に出ようと店内に背を向け、キャリーバッグを引きずり歩き出したところで――
「い、いら、いらっしゃ……っ、わ、わわっ……!」
「――はっ?」
不意に声がした。それもとびきり素っ頓狂な。
階上から忙しない足音ともに、覚束ない足取りでまるで転がるように降りてくる少女。
いかがわしいお店と見紛いそうになる可愛らしい服装は、しかし店内の雰囲気から程遠く……
慌てているのか、スカートから覗く細い足にその速度と負荷は危険すぎるというか、何かもう客の足を刈るラガーのごとく猛進してきて――
「お、おぉ? おわぁっ……!?」
「ぎゃぶんっ――!!」
何故か俺の胸に飛び込んできた。
よろめきそうになったが、ぐっと堪える。
「あの……」
激突してきたイノシシ――もとい店員らしき女の子は、俺の胸に顔をうずめながら動かなくなってしまった。
「うぅぅぅ……」
うめき声をあげる少女。
「……………………」
俺の左手があらぬ場所に添えられていた。
布越しでも沈み込む柔らかに、頬の筋肉が弛緩してしまう。
少女の反応がないうちに揉んでおきたい欲望と邪念を振り払い、咳払いをする。
「…………失礼」
さりげなく手をどけ、俺に寄りかかった少女を立たせてやる。
あの感触は墓場まで持って行くことにしよう。
「あぅぅ……痛いです……」
鼻先を押さえながら、ようやく起動する店員らしき少女。
「なあ、大丈夫か?」
「あぁっ!? お、おお、お客さま!?」
「あ、ああ、うん……」
「ご、ごめんなさい! ……じゃなくて、いらっしゃいませ! あの、えと、えっと……で、でで、出口はこちらです!」
「お前は俺に帰れと言いたいのか」
つい素の自分が出てきてしまった。
「ご、ごごご、ごめんなさい!」
「…………」
まだ新人だろうか。やけに要領が悪い。
見た目からして、きっと俺より年下なんだろう。
「お席はこちらです、の間違いでした……!」
「ああ、うんそうだよな、客に水を浴びせるぐらいの無礼で応対されたのかと、勘繰っちゃったよ」
あの膨らみに触ったことに気づいたのかと思ったが、どうやらそうではないらしく。
俺は俺で性分なのか、やけにぶっきらぼうな言葉で返答してしまう。
向こうでは言葉遣いや性格なんか知らない人ばかりだったし、日本語で喋る機会もそうなかった。
まあこれについては徐々に修正していくとしよう。
「あ、えと、ご、ごゆっくり――あっ! お水!」
「いや、その前に聞きたいことが……」
「ご注文ですね!」
「……………………」
声が大きいのはいいことだが、こうも人がいないと響きすぎて耳障りだった。それを営業スマイルを通り超した満面の笑みでなんとか相殺している。
……この子が仕事に不慣れなのは諦めよう。雪花が来るまで待つしかない。
「ま、いいや。味噌汁、味噌抜きで1つ」
「アメリカン……と」
「喰いタン、後付けありで」
「アメリカン……砂糖とミルクありありで……」
「あとアメリカン」
「アメリカン……2つに増えちゃった……えと、2つ……」
指を折って数えながら、やけに必死に覚え込もうとしている。適当におちょくってみたが、反応が薄いのでこれ以上はやめておこう。
そしてふと、メニュー表を目で追っていると、当時なかったケーキを発見する。
「キルシュトルテ」
「…………」
「キルシュトルテ」
「…………アメリカンお一つでよろしいですか?」
「キルシュトルテ」
「アメリカンお一つでよろしいですか!」
「よろしくねえよ」
不都合と、それまでの注文を踏みつぶそうとするような荒技に屈せず、俺は少女を見上げた。
「……もうないの?」
そういえばあのウインドウには何も置かれてなかった。
今日の分は全て売り切ったのかもしれない。夕方にショーウインドウが空っぽになるというのは、以前もよくあった。
「それならそうと言ってくれればいいのに。で、何と何が残ってる?」
「あ、アメリカンとエスプレッソが少々……」
「…………絶望的だな。夜とかもたないじゃん。俺2つ頼んじゃったらもう水しかないじゃん」
「ですからアメリカンお一つで……なんとか……そこをなんとか……」
責めてるつもりはないが、俺が悪いみたいなノリで頭を下げられた。
ただ、やけに空回りした店員さんを追い詰めるつもりもないので、ここは退いておくことにする。
もとよりここでコーヒーブレイクなんてつもりはなかった。
「はあ……もういいや」
「――――えっ?」
「俺さ、雪花の――」
「つ、作ります!」
「え」
「任せてください。やりましょう。ええ、やりましょう。ショートケーキ作ります! だ、だから、少しお待ちください! か、帰らないでください……」
不安げな瞳で俺を見つめる少女は、どうやら俺のことを怒らせてしまったと思ったらしい。こんなに紳士な俺がどうして怒るのだろう。
……ああ、そうか。ため息か。
『何もないから帰る』という意味合いではなかったのが、誤解を招いてしまったようだ。
「さ、30分ぐらいお待ちください……っ」
「それはいいんだけど、俺の話を――」
と呼び止めようとしたものの……
「…………」
すでに少女はいなくなっていた。厨房にでも行ったのかもしれない。
「それにしても……」
ずいぶんと人の話を聞かない店員だ。佳枝さんも苦労しただろう。
俺は改めて店内を見回した。
瀟洒な造りではあるものの、店内に流れる音楽は陽気なもので居心地は悪くない。
少女が降りてきた階段を見上げ、そういえば2階にも席があったことを思い出す。
外を眺めながら雪花を待つのも悪くないかもしれない。
しかしあの慌てふためいていた少女は、俺がこの席から消えたらどう思うだろうか。
俺は立ち上がり、鞄を手に取った。
「はぁ……」
紙ナプキンを取り出し、我ながら雑な字で『2階にいます』と記しておいた。
さすがにここまでやっておけば、問題ないだろう。
見晴らしの良い窓際の2階席に腰下ろし、俺は改めて現状を確認する。
店を切り盛りしていた恩師が亡くなり、エイルハートは1度閉店した。そしてここで働いていたスタッフや弟子は、皆退職したらしい。
その後、2年ほど前にこの店が再開される。だが軌道は上向かない。
原因は他にもある。味の質が落ちたことはもちろん、去年近所に新しい洋菓子店がオープンして、ここに来ていた常連は皆そっちに流れたこと。
そういう諸々の不運が重なり、立ちゆかなくなってきてしまったと聞く。
当時のパティシエは誰1人として戻らなかったのに、見切り発車もいいところだった、と現状の面々は反省していたとかなんとか。
事実、こうして久しぶりに訪れた店は、どうにもうらぶれた印象が拭えない。
正直なところ、ここを継いだ新しいマスターには同情する。
新規に人を雇うことすら出来ず、かといって今いる面々だけでは、新たな展開をするには少なすぎる。
しかしまあ、佳枝さんが亡くなってからの2年……よく持ったものだ。
それはひとえに、残ったスタッフたちが諦めず努力した結果なのだろう。
「……ふむ」
それにしても、ずいぶんと目鼻立ちのくっきりした少女だったな。
青い瞳は、まるで異国の人間のようだった。
「お、おお、お待たせいたしました!」
「あ、ああ……」
「はは……下にいなかったので焦っちゃいました。……えっと、チーズケーキとエスプレッソです」
「すり替えちゃったよ、この子」
頭の中で奇抜なトリック使っちゃったらしい。不屈の精神で『アメリカン』とか言ってたのに西洋伝来に切り替わってる。
厨房にはケーキのストックがいくつかあったのだろうか。どちらにしても注文とは違うものなのだが。
「どこに行ったのかと思って、 冷蔵庫とかトイレ開け閉め開け閉めしちゃいました。一言仰ってくださればよかったのに……」
「危なかったな。ついさっきトイレでアウトプットしていたところだ」
あの衝突でついぞ俺は果てるかと諦めかけていたが、耐えきった。ジェントルは野外放尿はしないのだ。
「…………」
「…………」
だが俺の小粋なジョークは聞き入れられなかったらしい。微笑んだまま、俺を見ているだけで、特に面白い反応はなかった。……あまり深く踏み込まないでおこう。
「じゃ、ま、いただきまー……す ?」
目を落とした先には何やら異物が置かれていた。
色と香りは少女の言うチーズケーキだが、何か違う。
「…………」
この異物は何かしらの悪意に満ちているのだろうか。 罰ゲーム的な。
「見られてると食べられないんだけど」
「はっ! す、すみません……!」
くるっと少女が背中を向けた。
フリルのついたスカートが翻り、綺麗なおみ足を拝んでしまった。
「ふむ……」
見てくれは甚大な被害を受けているが、案外味は悪くないのかもしれない。
この店員さんが作ったのだろうか。褒められたものではないが、訝っていても仕方ない。 食べてみよう。
「…………?」
ふと、視線を感じて顔を上げると、店員さんとばっちり目があった。
「…………っ! あっ、いや、これは! 違うんです、あの、あの一……えと、その……っ!」
あからさまな動揺。身振り手振り、体全体を使っての大げさなリアクションを見せる人間を、 アメリカンコメディ以外で初めて見た。
「あのさ、目の前にいられると落ち着いて食べられないんだけど」
「ま、まま、またしてもすみません! ご、ごゆるりと!」
佳枝さんの店で働いているぐらいなんだから、 悪い子じゃないということはわかる。
そういや雪花が、ここ3日客が来てないって言ってたっけか。
ま、やる気が空回りしただけだろう。可愛いものだ。
いやいや、しかし……
「これはひどい」
食べ物は見た目にも気を遣うべきだと説いた恩師。
これは、いくら何でも美醜を問うとかのレベルではない。
黒いし、丸い。
投げたら広範囲に甚大な被害をもたらしかねない。
「食ってみるしか……ないよな……」
口をつけなければわからないこともある。
あの子だって頑張ってるみたいだったし、無下にできるはずがない。
「どれ……」
もっさりとフォークが沈んでいく。
らしからぬ手応えに冷たい汗が背筋をつたう。
黒みの少ないところを小さく切り分け、口へ運び入れ咀嚼する。
味の質が落ちたとはいえ、この店で出されるものだ。こう、恩師特有のクセのある味が口いっぱいに
「広がらない!」
飲み込んで余韻を楽しむまでもなく、これは美味しくないと断言できた。
見てくれを考えれば、それほど悪いものではないが、それは減点部分が大きすぎるがゆえの問題であって。
もう一口食べて、確認する。
「ひ・ろ・が・ら・な・い・!」
一目見てわかっていたことだが、これじゃあ他の客も食いつかない。
コーヒーに口をつけてみるが、ケーキの風味をかき消すだけで到底、お金をとって出せるレベルのものではない。
お世辞にも美味いとはいえないケーキとコーヒー、確実に悪い方向へ転がっているであろう店の内情は、この2点だけでありありと窺える。
「騒々しいですよ、先輩。どうして黙っていられないんですか」
口直しに水の上に浮いていた氷を舐めていると、ようやく後輩が姿を見せた。
「すごい格好してんのな」
「制服です。可愛いですか?」
さっきの子と同じ服を身にまとった雪花が、その場でくるりと回転してみせた。
ふわりとスカートが浮き上がった。
「パンツ穿けよ」
「は、はは穿いてますっ!」
俺は返答に困ってつい話をそらした。
なまじ外見がいいものだから、こういうとき、何だか恥ずかしくなる。学園生の頃だって、俺なんかと一緒にいなければそれなりにモテただろうに。
「それで、どうして俺は呼ばれたのか。そろそろ聞かせてくれないか?」
「はい」
そうしてとびきりの美人は目を閉じ、きゅっと口を切り結ぶ。
そして話す内容を整理したのか、その唇をゆったりと開いた。
「あれは2年前の今日のことでした。降りしきる雨の中、私は一人お店の前で立っていたのです。よもや、あんなことになるなど、そのときは思っていませんでした。世は無常だと、私は初めて知っ――」
「……そのくだりは、長くなりそうか?」
「比較的」
「要点だけ。簡潔にまとめてくれるか」
「残念です。マルセル・プルーストもびっくりの長編に仕上げたのですが」
「マジかよ……」
「嘘です。うら若い乙女を甘く見ないでください。彼よりずっと忙しいんですから」
「……後で偉人にごめんなさいしておけよ」
愛すべき後輩が、表情1つ変えない上に相変わらずのクールっぷりで俺のペースを乱した。
先の運転で忘れかけていたが、 本来のこいつはいつだってこんな感じだった。
「あ、そうでした。1つ忘れてました」
「ん?」
「これ、うちのマスターです」
「え」
雪花の視線の先にいたのは、いうまでもなく例の店員。
「……マジで?」
「マジです」
「ほ、
「せんせ――……っておい、そもそもこいつは何を言ってるんだ」
しかも 『保坂』って。
「先代のご息女です」
「あの人、娘いたのかよ……」
「わ、わたし頑張ります。先生……ぜひ! 今後とも!」
「おい雪花。どういうことだ。何でこいつはこんなにとち狂ってるんだ?」
「では話しましょう。私が先輩を2年もの間、探し続けていた理由を――」
やけに畏まった2人の少女が、目を見合わせていた。
今にも崩れていきそうな店内で、やけに華美な服をまとった先代の娘と、学園時代の後輩。
嫌な予感はあったが、
夕空の沈み込んでいく西から風が一陣、窓を叩いた。
「はぁ……」
本日何度目かのため息をついた。 2人の表情からは、明るい話題が振られることはなさそうだ。
そして――
この日、俺は保坂佳枝という舵取りを失った沈みかけの船に、足を踏み入れてしまった。
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