雨の後
八日郎
雨の後
固めの紙がばりっと大きな音を立てて台紙からはがされる。
丁寧にやったつもりだったが、白い壁に吊り下げられたカレンダーの台紙には、破ったはずの前の月の紙の切れ端が残ってしまっている。
昔から、どうもカレンダーをめくるのが苦手だった。
固い紙で指を切りそうなのが怖いのもあるし、紙が裏側に向かって丸まろうとするのも扱いにくく感じる。
横着しないで画鋲を抜いて、壁から外してめくればよかった。
賃貸マンションの壁に穴をあけるのは、最初は少し抵抗があった。
真っ白な壁に画鋲なんて刺したら、抜いた後に穴が目立つんじゃないか、部屋を出ることになったときに壁紙の貼り替えでお金がかかるんじゃないか、といろいろ考えもしたが、結局画鋲を壁に押し込んだ瞬間のやっちゃった感が持続したのは数分程度だった。
それなりに綺麗に使っていたはずの部屋も、先月掃除機を倒して壁に傷をつけてしまってからは、あけてしまった画鋲の穴程度なら全く気にならない。
運よく借りられたこの部屋で暮らし始めて、もう二年が経とうとしている。
駅から徒歩七分、三階建ての三階角部屋、南向きの新築マンション。
風呂トイレ別、ガスコンロは二つ以上、洗濯機は屋内設置、独立洗面台があった方がいい、などたくさんの条件を上げたにも関わらず、あっさり見つかった好条件の物件だ。
白を基調とした壁や扉も、色の薄い木目のフローリングも気に入っている。
担当のゆるふわパーマのお姉さんが、「条件ぴったりの部屋がすぐ見つかるなんて、お客様は運が良いですよ~!」と手を叩いて喜んでいたのを覚えている。
当時彼氏と別れたばかりだった私は、「本当ですね~」とゆるふわな調子で答えつつ内心鼻で笑って不貞腐れていたが、希望の家賃予算でこの好条件は確かに運が良かった。
この部屋に住み始める前は、ここよりシンクの狭い部屋で、当時付き合っていたタケと同棲をしていた。
今では二人で暮らしていた期間よりも、この部屋に一人で暮らしている期間の方が長くなってしまった。
タケは、私の所属していたバンドのメンバーだった。
小さいライブハウスなどで精力的に活動していた私たちのバンドは二年前、活動してきた七年間を誰に惜しまれることもなく解散した。
メンバー同士での話し合いがあったわけでも、音楽性の違いで喧嘩になったわけでもない。
ライブ終わりの打ち上げと称した反省会で誰かが言った、「ここいらが潮時だな。」が解散の合図だった。
そんな一言でいとも簡単に全員が音楽から離れてしまうほど、私たちはとっくに限界を迎えていた。
ライブの度に足を運んでくれていた数少ないファンも、きっとすぐに私たちのことを忘れたことだろう。
大学在学中に結成した五人編成のバンドは、軽音サークルのへたくその寄せ集めだった。
最後のライブだって、客の集まりも盛り上がりもいつも通り微妙で、決して上出来だったとは言えないし、私たちは結局最後までへたくその寄せ集めだったのかもしれない。
それでも、私にとってのバンド活動をしていた七年間はお遊びではなかったし、不思議なことに私は、私たちの音楽が世に出て評価されるとどこかでぼんやり信じていた。
中学生のときから趣味で曲を作っていた私は、いつか音楽で飯が食えるようになると、なぜか本気で思っていた。
バンドの解散後、そうなるのが当然だったかのようにタケとは別れた。
ばらばらになったバンドのメンバーたちと連絡を取ることもなくなったが、繋がっているSNSでみんなの状況は断片的に知っている。
実家の酒屋を継いだり、専門学校に通い始めたり、就職したり、タケに至っては最近婚約したらしい。
私はやりたいことも見つからず、居酒屋とコンビニのアルバイトで生活を繋いでいる。
あんなに必死になっていたはずの音楽からは、私を含め全員が完全に離れてしまっていた。
最後のライブで弦が切れたギターは、あの日からケースに入れてそのままになっている。
引っ越しの際にもう捨ててしまおうかとも思ったが、なんとなく捨てられずに部屋の隅で埃をかぶっている。
音楽から離れてからというもの、同級生が次々に結婚していくのを目の当たりにして、私はいったい何をやっているのだろうとふと考えることが増えた。
朝起きて、バイトに行って、帰って来て寝て、また朝になる。何かを追いかけるでもない、目標があるわけでもない、ただただ毎日をなんとなく過ごしている。
たまに会う友人たちに「雪音あんたまだそんなことやってんの?」と言われるが、そんなこと私が一番感じている。
貯金もできず毎月ぎりぎりで生きているが、漠然とした不安が膨らんでいくだけで、今後どうしていきたいのかが想像できない。
どんな用事だったとしても、最後は必ず「いい相手はいないの?」という一言で締められる母からの電話を、なんとなく無視するようになったのはいつからだっただろう。
学生の頃に考えていた大人の自分は、もっとちゃんとしていたはずなのに。
指先にかすかな痛みを感じ、目線を不格好に破られたカレンダーから指先に移す。
カレンダーの堅い紙に引っ掛けてしまったのか、左の人差し指の腹が切れて血が滲んでいた。
救急箱の中に絆創膏は残っていただろうか。
カレンダーは、ふた月ごとに季節感のある写真が印刷されている。
雑貨屋めぐりが趣味のパートのおばちゃんが、たくさん買ったはいいが使っていないカレンダーを数種類持ってきて、バイトたちに配っていたのを一冊貰ってきた。
サイズ感がちょうどよく、文字部分もシンプルで写真の色味が映える。
さっきめくった三月四月の写真も、奥行きのある満開の桜並木が綺麗だったが、五月と六月の面も別の雰囲気があって綺麗な写真だった。
青い紫陽花を上から覗き込むように撮った写真で、花びらの上で雨水の雫が光っている。
紫陽花越しに見える水たまりに円状の波紋ができていることから、雨が降っているのもわかる。
全体的にうっすら青みがかった涼しい印象の写真で、いい雰囲気だな、と感じた。
写真の右下には、写真のタイトルとカメラマンの名前が印字されている。
『雨の後』というタイトルの横にローマ字で書かれた名前を読んで、私の喉が変な音を鳴らした。
耳の奥で心臓がどくどくと音を立てる。
そこに書かれていたのは、ミズキナカムラという懐かしい名前だった。
中村瑞季は、高校のパソコンの授業で隣の席だった。
短く切りそろえられた少し癖のある黒髪、長いまつげにくっきりとした幅の広い二重、すっと通った鼻筋と小さい小鼻、うっすら赤みが差した薄い唇。
瑞季は誰がどう見ても美人だった。
それで愛想がよかったら完璧だったのだが、彼女は極度の人見知りで常に無表情だった。
誰かが話しかけても必要最低限のことしか話していなかったし、一匹狼だと勘違いされても仕方なかったと思う。
男子には高嶺の花、女子には高飛車な女として扱われていたし、恐らくクラスで私だけが、彼女の素を知っていた。
瑞季と話すようになったきっかけは、とても些細なことだった。
前の日に徹夜で曲を作っていた私は、授業中にうつらうつら舟をこいでいた。
機械はただでさえ苦手なのに、子守歌のような先生の声と聞きなれない横文字で完全に参ってしまっていた私は、次回の授業で行われる成績評価を決めるテストの範囲を聞き逃してしまった。
目が覚めて焦った私は、隣に座っていた瑞季に寝ぼけたまま声をかけたのだ。
「ちょ、中村サン、私今完全に寝てたわ。範囲言ってた?」
「教科書の三章全部」
「広いな。さんきゅ」
こちらをちらっと一瞥してからそっけない返答をした瑞季の横顔を、まつげの長さが私の倍はありそうだ、と思いながら眺めたのを覚えている。
私の目線なんかは完全に無視をして、瑞季は先生にばれないようにインターネットを開いて何かを調べていた。
授業で使っているエクセルの画面の横に映し出されていたのは、当時私が大好きだったインディーズバンドの新譜のジャケット写真だった。
「中村サンも好きなの? それ」
先生と周りにばれないように、こっそり画面を指さして瑞季を覗き込んだ私は、大きな目をさらに大きく見開いた瑞季の顔を見て思わず吹き出してしまった。
高飛車で大人っぽいと思っていた彼女が、急に大好きなお菓子を目の前にした子供のように見えたのだ。
瑞季が好きなのは、バンドではなくジャケットの写真の方だった。
古い駅のホームを撮った写真で、ぼんやりと光った蛍光灯の下にボーカルが立っているデザインのものだった。
確かにかっこいいジャケットだとは思っていたけれど、写真として意識して見たことがなかったから、瑞季が嬉しそうに話すカメラマンの撮り方の癖なんかを聞いて新鮮な気分だった。
それから瑞季とは、少しずつ話すようになった。
美人で高嶺の花で高飛車だと思っていた瑞季は、慣れたら思っていたよりよく喋るし、子どものように笑う、普通の女の子だった。
特別仲が良かったのかと言われたら、そんなこともなかったような気がする。
休みの日に一緒に出掛けたことはないし、放課後に時間を合わせて一緒に帰ったこともない。
私には私の友達のグループがあったし、瑞季は瑞季でいつも一人だった。
クラスで浮いている子とおおっぴらに仲良くして変な空気になるのも嫌だったので、周りにたくさん人がいるときに瑞季と一緒にいることもほとんどなかった。
高校生らしいといえばそこまでだけれど、随分狭い世界で窮屈していたんだな、と今になって思う。
良くも悪くも瑞季とは、たまたま時間があったときになんとなく話す程度の仲だった。
それなのに私は、他の仲が良かった友達よりも瑞季が一番私のことをわかっている気がしていたし、他のどの友達よりも瑞季のことをよく知っている気がしていた。
高校三年生の雨の日、帰り道の公園で、瑞季が傘もささずにずぶぬれで立っていたことがある。
担任に日直の仕事を押し付けられて、一人で帰っていた日のことだった。
じとじとと湿気の多い梅雨の日で、朝からずっと雨が降り続けていた。
「そこの美人さんや、そんな雨に当たってたら風邪ひくよ」
声をかけられてゆっくり振り向いた瑞季に、よ、と手を上げると、彼女は濡れた前髪をかき上げてから少し口角を上げて笑った。
美人は雨にぬれても絵になる。
「その傘、可愛い。雪音っぽくないけど」
「これねーちゃんの。とりあえず屋根あるとこ行こ」
スカートが吸った雨水を雑巾のように絞ってから、瑞季は「どうやって撮ったら、雨がきれいに写るか考えてた」と言った。
写真が好きなのは知っていたが、瑞季が自分でも写真を撮ることをその日初めて知った。
公園の木製の古いベンチは、連日の雨を吸ってスカート越しでも湿っているのがわかった。
トタンの屋根を叩く雨音に守られて、私たちはいつもより大きな声で、学校で話せない分たくさんの話をした。
「あたし雨、嫌いなんだよね。じとじとして」
「そう? 私わりと好きだわ。雪の方が嫌いだね、寒いし」
「雪の音なのに?」
「そっちだって瑞々しい名前のくせに雨嫌いって」
学校でもこれだけ話せたらどんなに楽しいだろう、と思ったのを覚えている。
周りが作った空気なんて気にせず、この子ホントはただの人見知りだから、と輪の中に呼んであげられたら、きっとみんな瑞季がいい子だってわかるし、この子のこと好きになるはずなのに。
ただ、その頃の私はそれを行動に移せるほどの度胸がなかったし、その頃の私たちにとっての学校は、世界の全てのように思えていた。
その日に提出した進路調査票の話もした。
瑞季は写真の専門学校に進学希望らしい。
私は合格圏内の適当な四年制大学を志望していた。
音楽一本に絞る勇気は、私にはなかった。
くだらない話から将来の夢まで、どうしてこんなに話題が無くならないのかと思うほどたくさんの話をして、すっかり薄暗くなった頃には雨はやんでいた。
ベンチから立ち上がった私たちは、二人で間抜けに空を見上げた。
「昼じゃないと無理か」
私の呟きに、瑞季が小さく首をかしげる。
美人はこういう仕草も可愛くやってしまえるからずるい。
狙ってやっているわけではないから、瑞季には嫌味がなくていい。
「天気よかったら虹出るじゃん? 雨降って地固まる、とかも言うし、案外雨の後って良いこと起きがちなのよ」
ああ確かに、と大げさに納得する瑞季を見ながら、耳が熱くなるのを感じる。
クサいことを言ってしまった。
将来の夢なんかの方がよっぽど話していて恥ずかしかったはずなのに、雨が降っている間は何も感じなかった。
「雪音が羨ましい」
雨がやんでいなかったら聞き取れないほどの小さな声で、瑞季が呟いた。
私は一瞬、言葉が理解できなかった。
私を、羨ましい?
「それこっちのセリフでしょ完全に」
「雪音に見えてる世界を、撮ってみたい」
「私だって」
思っていたより語気が強くなってしまって焦った。
驚いた表情でこちらを見ている瑞季に、私は「でかい声出たわ、ごめんごめん。じゃあまた明日」と一息に言って、背を向けた。
今思えば、あれが瑞季と最後に話した日だった。
子どもの嫉妬心でしかなかったが、私はあの日、私の持っていないものを全部持っている瑞季に羨ましいと言われて、心底腹が立ったのだ。
私は美人じゃないし、性格も素直な方じゃない。
なにより、瑞季のように夢を追いかけられず、音楽の道に進む選択ができなかった。
私こそ、ずっと瑞季が羨ましいと感じていたのに。
カレンダーの雨に打たれた紫陽花からは、雨のもたらす陰鬱さは感じられなかった。
色鮮やかで、爽やかで、雨に濡れながら公園で立ち尽くしていたあの日の瑞季に少し似ていた。
やっぱりあんたの方が、私よりよっぽどきれいな世界が見えているじゃないか。
気付くと私は、弦の切れたままのギターが入ったギターケースをひっつかんで、家を飛び出していた。
タイヤの空気が抜けまくったチャリのペダルを、立ち漕ぎで必死に踏んで駅前に向かう。
じとじとした梅雨の湿気を払うように、チャリはぐんぐんスピードを上げる。
駅前で弾き語りなんて、十代の頃にやったっきりだ。
ギターだって二年前のあのライブ以降一度も触っていないのに、勢いで出てきたはいいが本当にやるのか?
ぐるぐると頭でいろいろ考えてはいるものの、なぜか気持ちだけはすっとしていた。
私は今日も昨日と変わらず、同級生の結婚に焦りを感じているただのフリーターで、何一つ状況が変わったわけではない。
カレンダーで切った人差し指がじくじくと痛む。
これではコードもまともに押さえられないだろう。
もうすぐ雨が降る。
朝のニュースで、明日の昼までは降り続けると言っていた。
明日のバイトはチャリでは行けないかもしれない。
でもきっと、雨の後には虹がかかるはずだ。
雨の後 八日郎 @happi_rou
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